物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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 第36話に登場した衛藤晟一さんが、復党問題でメディアを騒がせています。
 右は、2007年3月10日付の朝日、毎日、読売新聞の朝刊です。いずれも、記者に取り囲まれた衛藤さんの写真入りです。
 連日の報道を見ていて、元新聞記者の私は、担当記者たちの不勉強にがっかりしてしまいます。ほとんどのメディアが、衛藤さんを「安倍首相のお友だち」と紹介して事たれりとしているからです。

 衛藤さんは、少なくとも、2つのことで、日本の政治に大きな影響を与えました。
 ひとつは、村山内閣の誕生と自民党の復権。
 「社会党の委員長をかついで自民党が政権与党に返り咲く」という前代未聞、空前絶後の策は、衛藤さんなしには、実現していなかったといわれます。
 もうひとつは、介護保険の成立に果たした役割。たとえば、"介護保険の鉄人"、香取照幸さんは、「衛藤先生は、守旧派の牙城といわれていた社会部会を向こうに回して一歩も引かなかった。介護保険法案を通した立役者です」と、その力量に敬意を表しています。

■「水を打ったようにシーンと」■

 衛藤さんが「村山内閣成立」という"事件"の扉を開けたのは、1994年5月30日の夜のことでした。その夜のことを、当時自民党幹事長だった森喜朗元首相と亀井静香さんは、こもごも、こう語っています。

 まごまごしていると、自民党は潰れてしまう。政権復帰するために「社会党と組もう」といったのは亀井さんです。あなたから、「早くやれ、早くやれ」と急せかされていたが、何とか流れをつくれたかなと思って幹事長室に戻ると、「よく言ってくれた」と、目に涙をいっぱいためて、そのひげ面で私に抱きついてきた(笑)。芝居でいえば森・亀井の『涙の抱擁』シーン(笑)。
亀井 久保亘社会党書記長に邪魔されて、自社連立の話が進まなかったので、あのときは本当に嬉しかったな。「ついに、ヤッター」という気持ちでしたよ。だが、次なる難関が待ち受けていた。
 そう、自民党内で正式に村山擁立をどの機関で決定するか、それが大きな問題でした。通常、これほど大事なことは、総務会を経て両院議員総会にかけるという手順をとる。そうすると二回手続きが必要になり、その間に潰されてしまう可能性があった。
亀井 森幹事長は、「よし、議員総会一回で行こう」と決断された。
 あのときの両院議員総会は大荒れに荒れた。総務会を飛ばして開いた総会だから…。
亀井 反対、反対の大合唱(笑)。
 「何をお前ら血迷っているんだ。社会党と組んでやるんだと。河野はハト派と分かっていたが、お前まで気が狂ったのか」などと、さんざん怒鳴られ、えらい目にあった。特に、当時の中曽根派の人たちは、烈火のごとく怒って、バンバン反対意見をふっかけてくる。
亀井 そのとき、私のすぐ側に座っていた衛藤晟一議員がスッーと立ち上がると、ダッーと前にすっ飛んで行きマイクをパッと掴むと、まさに声涙ともにくだる大演説を始めた
 「ただいま河野総裁が、社会党の村山委員長を総理に推薦いたしました。皆さん、いま誰が一番悲痛な思いかおわかりですか。河野総裁ご自身に他なりません。それに私は村山委員長と同じ選挙区で、しかも、五百メートルほどの近所に住んでおります。今や小選挙区制、次の選挙を私は、現職総理大臣を相手に闘うことになるのです。皆さん、おわかりですか。私はそれだけ大きな荷物を背負ってもなお、我が党のことを思えばこそ、村山首班に賛成いたします」
 この瞬間、あれだけ騒がしかった会場が、水を打ったようにシーンと静まり返ってしまった。憲政史上に残る素晴らしい演説だった。

 このやりとり、実は、『月刊自由民主』2005年3月号の対談「立党50年企画-政権奪還への道」からの抜粋です。
 衛藤さん、ご本人に確かめたのですが、紛れもなくドラマそのものの場面だったそうです。

 こうして、村山政権が発足。まだ2年生議員だったにもかかわらず、衛藤さんは、自民党の社会部会長、連立与党福祉プロジェクトの自民党座長に抜擢され、介護保険の成立に深くかかわっていくことになりました。
議員総会での功績に加えて、大分の市議、県議時代からの福祉分野の実績が評価されてのことだったようです。

■遺骨安置室の隣りに、タコ部屋が■

 政界が荒れに荒れていた94年4月8日、事務次官の古川貞二郎さんの決断で、厚生省は高齢者介護対策本部の設置を発表しました。
 岡山市の民生部長に出向していた増田雅暢さん(現・上智大学教授)は、4月1日、異動の辞令を人事課に受け取りにいって、「まだ秘密なので言えないが、特命事項だ。引っ越しは奥さんに任せて、あすにも着任するように」と言い渡されて驚きました。
 「引っ越しを伴う異動は、ふつう1週間ほど猶予があるものなのですが」

 13日発足した対策本部は、本部長が事務次官の古川さん、事務局長は、後に参議院議員になる老人保健福祉担当審議官の阿部正俊さん。それに、キャリア組の専任スタッフが5人。
 「この布陣は、老人保健制度を立案した老人保健医療対策本部以来のことです。しかも、80年代と違って国家公務員の定数管理の制約が厳しくなっていいた時期に、当初から、5人も専任スタッフを貼り付けたのは、新たな制度を立案し法制化はめざす機動部隊として位置づけられていることを意味していました」
 のちに九大法学部助教授も経験し、介護保険の政策形成過程を本にまとめた増田さんの分析です。

 霞ケ関には「タコ部屋」という業界用語があります。
 厳密な定義はないのですが、特定のテーマに専念するために労基法無視で働くマンパワーが集められる部屋です。一人当たり面積が狭く、泊まり込みも多く、褒められた環境ではない空間、という特徴もあります。
 厚生省の4階、幽霊が出るという噂のある戦没者の遺骨の安置所の隣に設けられた、狭いことこの上ない“鰻の寝床”みたいな対策本部は、タコ部屋のイメージにぴったりでした。犯行現場の見取り図みたいな94年4月時点の配置図は、増田さんが記憶を頼りに原図を描いてくださったものです。


■ゴールドプラン策定の中心人物も■

 事務局長の阿部さんの机はありません。阿部さんが加わった会議は審議官室でするのが慣例だったこともありますが、なにより、あまりに狭くて机を置くスペースがなかったためです。
 左奥の窓際に、のちに"ミスター介護保険"と呼ばれることになる専任事務局次長の山崎史郎さん。
 右の奥が、保険局保険課長と併任の渡邉芳樹さん(現・年金局長)。事務次官の古川さんが「山崎くんが庁内で孤立することになったときに頼りになる助っ人」(第19話)と選んだ人物です。

 渡邉さんは、スウェーデンの日本大使館に出向した経験があり、政策課課長補佐だった89年、当時の事務次官、吉原健二さんの特命で、ゴールドプラン策定作業をした中心人物でもありました。
 「施設の野放図な増加を抑えたくて、スウェーデンのサービスハウスを念頭にケアハウスを入れ込みました。当時は、ヘルパーの増員もケアハウスも担当の局には大変不評でした。移動サービスも入れたいと努力しましたが、できませんでした。」
 渡邉さんの先見の明は、20年近く前には理解されなかったのでしょう。
 「介護の財政モデルを企画して、大蔵省等に説得したり、自治労と交渉したり、老施協の全国大会に保険課長として講演して、『これからの道は介護保険しかない』と説得したり、柴田雅人さんが事務局をつとめた89年の介護対策検討会の成果をシステム研究会報告にまで仕上げることを歴史的挑戦と思って取り組んだり……懐かしいことばかりです」

 タコ部屋は、94年12月末には、6階に移り、部屋の広さも2倍くらいに広がりました。ただ、人数も倍以上になったので、人口密度は変わりません。
 こちらの見取り図は、95年8月時点のものです。
 制度設計を受け持った、伊原和人、池田宏司のご両人は年齢も同じ、席も隣あわせで、夜を徹して議論を戦わせていました。医系技官の滝川陽一、得津馨の2人も加わりました。藤崎誠一さんは、現在、社会・援護局の地域福祉課長。町田好正、愛須通路の2人は、社会保険庁出身で、介護保険料を年金から天引きする案をはじめ、社会保険庁関係の課題を担当していました。
 阿部さんが老人保健福祉局長になった後は、和田勝さんが審議官も、介護対策本部の事務局長も引き継いで、政財界との折衝に腕を振るうことになります。

■照幸さんと彰晃と■

 95年の5月16日、一連のサリン事件の元凶として、オウム真理教の教祖、麻原彰晃が、逮捕されました。上九一色村の第6サティアンの天井裏に潜んでいたところを見つかったのです。
 7月の人事異動で、併任から、専任次長補佐に座った香取照幸さんは、有り難くない2つの仇名に悩まされることになりました。
 照幸と彰晃、どちらも「ショウコウ」と読めることから「尊師」、弁がたつことから、「ああ言えば上祐」。
 そして、6階に移ったこの対策本部は、「第6サティアン」と呼ばれることになったのでした。

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