物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

※写真にマウスポインタをのせると説明が表示されます

 この連載、おかげさまで、丁寧に読んでくだる方に、あちこちで遭遇するようになりました。そのお1人からこんなメールをいただきました。

 介護保険は、役所が作ったものではなく、多くの当事者や現場の人が作ったものです。後世にそのことをきちんと残す、という意味でも、とても大事な連載だと思っています。
 ひとつ提案なのですが、連載でも少し言及がありましたが、この制度を作り上げる上で、自治労の果たした役割は非常に大きいものがあります。
 社会党、民主党を引っ張り、市民運動を支え、連携し、自治体を叱咤激励したのは、正に自治労です。
 2号被保険者の保険料負担の問題で腰が引けている連合を、中から突き上げたのも自治労です。
 介護の社会化を進める一万人市民委員会を黎明期に支えたのも自治労です。
 そして、その中心人物は、福山真劫さん(当時健康福祉局長、後に書記長)です。一度、福山さんと自治労チームのことを取材して取りあげてください。運動論的には圧倒的に福山さんの功績が大きいです。

 「シンゴウさん」と敬愛され、「いずれは自治労の委員長」「そして、連合の会長に」と衆目一致する存在だった福山さんは、不幸な事件の巻き添えになり、自治労を去っていました。  御茶ノ水に小さな事務所を構える「フォーラム平和・人権・環境」と「原水禁」の事務局長になっている福山さんを訪ねると、『寝たきり老人のいる国いない国』を愛読していましたよ」と温かく迎えてくれました。

■「官僚は信用できない」から、一転して……■

 写真のように、実におだやかな顔だちの福山さんですが、「手ごわい相手でした」と苦い思いを噛みしめている官僚もいます。
 福山さんは、三重県生まれの団塊の世代。大阪市立大在学中にベトナム反戦、学園紛争を経験しました。
 「平和と民主主義のために生きることこそ、すばらしい生き方」と、志を抱いて、1970年に大阪市役所に入りました。希望どおり、釜ヶ崎や障害者の福祉の仕事にたずさわった後、自治労大阪市職員労組民生局支部長として3000人の組合員を束ねることになります。そして、自治労社会福祉評議会議長に。

 福山さんは回想します。
 「厚生省が保育所を措置制度から外そうとしたとき、その動きをつぶす先頭に立っていました」
 「理想が高ければ官僚なんかになっているはずがない。官僚は信用できない、そうと思いこんでいました」
 厚生省側も自治労にはピリピリしていました。
 後に高齢者介護対策本部の事務局長になる和田勝さんは、「保育所での失敗があまりにナマナマしいので、対自治労については深刻に構えていました。介護保険も、保育所改革同様、措置を外すわけですから」

 その自治労が、一転して、介護保険を支持し、写真のようなチラシや冊子をつくって強力な応援にまわることになります。(チラシの図の上でクリックすると大きくなり、文字もよく読めます)

 それには、ドラマがありました。
 ゴールドプランが誕生する少し前、福山さんの考えが変わったのだそうです。
 理由は、当時の老人福祉課長の辻哲夫さん、企画官の中村秀一さんと話し合ったからでした。写真は、それから17年たって、事務次官と局長になった辻さん(左)と中村さん(右)です。
 「われわれの方が官僚より理想が高い、と思い込んでいた先入観が一気に崩れました。議論すると現場のこともよく知っている。熱っぽく夢を語る」
 「理想を目指してがんばろうとしている人たちだと直感しました。一緒にやってみよう、と考えが変わったのです」

 中村さんに福山さん評を尋ねると、こんな答えが返ってきました。
 「福山さんは、福祉8法の改正のあと、大阪から出てこられ、健康福祉局長になられました。細川政権ができ、その後、自社さの連立政権ができ、新ゴールドプランやエンゼルプラン、障害者プランなどが作られるといった、福祉分野でも大きな動きが合った時期であり、自治労としても "大きな輝き"があった時期にあたります」
 「福山さんとは、立場こそ違いますが、目指すベクトルが同方向であったことが、福祉8法改正後の福祉充実、ヘルパーの処遇改善などについて、政策に共感していただいたのだと思います」

 辻さん、中村さんが高齢施策分野を離れたあと、福山さんの前に現れたのは、高齢者介護対策本部の山崎史郎さんと香取照幸さんでした。
 「このふたりがまた素晴らしかった。理想の高さと高齢者福祉にかける情熱に、私は彼らと同志になろう、人生のある時期を賭けていい、と思いました」

■"同志"として連携プレイ■

 自治労との厚生省を深く結びつけたのは、企画官時代の中村さんでした。
 「ハムさんに最初に会ったのは、90年2月だと思います。当時、辻課長が老人福祉法の改正を考えていて、課長補佐が自治労への説明役をしていたのですが、彼が転勤したので小生が引き継いだのが、発端です。当時、ハムさんは、自治労の生活福祉局の次席として、社会福祉評議会のお世話をする役割でした」
 「ハムさんについては、事前に、"古い左翼"、"頑固な人"、"手強い人"など数々の"悪評"を省内で聞かされていましたので、どんなにひどい人かと……。そうしたら、無理して構えているだけで、実は、人なつこい、いい人だとわかりました。福祉8法改正法案をめぐり、『自治労として賛成』という態度決定をしたのは、高橋さんでした」

 辻さんに高橋さんと福山さんについて尋ねたら、こうでした。
 「ハムちゃんが、地の塩になりたいという言葉に打たれました。不思議ですね。きょう、ちょうど、シンゴウさんは今どうしてるかなあ、思い出していたところでした」
 ハムちゃん(写真左)とは、高橋さんの名前「公」からついた愛称です。早稲田大学全共闘代表として勇名を馳せました。、当然のことながら、大学は中退。ツテを頼って自治労事務局へ。
 いまは、自治労の特別執行委員で、NPO法人ふるさと回帰支援センター事務局長です。

 高橋さんは語ります。
 「辻さんとのやりとりで印象に残っているのは、来るべき日本の社会保障制度はどうあるべきかを話していたときのことです。日本は、北欧と米国の間のどのあたりをめざすべきだろうか、ときいたら、『方向は北欧』だという。われわれも北欧を目指していたので、『ただ反対』ではなく、現場で勉強している人間でどんどん意見を出していこうという風に考えがかわった。しかも、われわれの提案が反映されていったのです」
 「中村さんは、それまでつきあった官僚とはケタ違いに決断力がありました。当時の役所は、資料請求してもあれこれ言って出してこないものだったのに、全部出してくる。別の課の人間も呼び出す。そいつが役人風にモゴモゴいっていると、まだ課長でもないのに年上の他の課のヤツに対して、『そういう話じゃないでしょ』とたしなめる。本気だなと思いました」
 「一番感動したのは、老人福祉計画課長になった時、ホームヘルパーの手当て引き上げの予算を組み、それを概算要求にまであげた熱意と力量です。1人あたりの手当を一挙に100万円上げて年間基準額318万円にする。そのための予算の2分の1は国、4分の1は県が持ち、残り4分の1の市町村負担も交付税で裏打ちするという思い切った予算要求。これを概算要求まであげるのは大変なことです」

 厚生省の概算要求までいったものの、案の定、大蔵査定でバッサリ。
 そこで、ハムさん登場です。当時、社会党の国会対策委員長だった村山富市さんに頼み込み、予算の復活を宮沢首相に掛け合って調整財源から出してもらったのです。こんな連携プレイは前代未聞です。

 福山さんはいいます。
 「介護保険で一番悩んだのは、税方式を捨てて、社会保険方式に賛意を表したときです。市民の権利の強化と財源確保には、それしかないと判断してのことでした。
 以下は、95年8月に公表された『高齢者介護保障の確立へ−公的介護保険の確立へ』の「自治労がめざす公的介護保険制度の基本的あり方」の抜粋です。

 自治労は、中央集権的でない、分権型の市町村が制度運営を行う「公的介護保険を目指します。
・市町村がコントロールしうる財政システムとなるような保険者を設定する。
・被保険者は20歳以上の市民とする。
・サービス給付を原則とする。
・利用者の選択を基本にした豊かな在宅、施設生活の保障
・重度で家族介護を前提としない24時間の在宅生活を保障しうる介護を水準とする。
・住宅改造、福祉機器については、給付内容に含む方向を追求する。
(略)
・不服申し立て制度、独立した利用者の権利擁護のための機関を確立する。
・新たなシステムに対応する自治体における機構整備と人員、財源の確保を行う。
・在宅ケアを優先し、社会的入院を追認するような施設サービスの一元化は行わない。

 これが、そのまま実現していたら、介護保険法と障害者自立支援法との連携は、いまより穏やかに進んだことでしょう。

 中村さんのコメントは続きます。
 「その後、"自治労事件"が起こり、福山さんは、書記長として、責任をとって退かれ、短期に終わりました。ご本人とって残念なことと思いますが、何よりも自治労にとって不幸なことでした」

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