物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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吉原次官の密かな決意

 介護という名のついた日本初の国レベルの検討会「介護対策検討会」が発足したのは1989年の七夕の日のことでした。
 発案したのは、その前の年に事務次官になった吉原健二さんです。

 話は80年5月に遡ります。吉原さんは環境庁官房秘書課長から厚生省の官房審議官に呼び戻されました。老人医療費の延びに歯止めをかけるプロジェクトのためでした。
 医療費が延び続けている主な原因は2つありました。1つは、要介護のお年寄りを「患者」として病院に収容するという日本的現象、もう1つは、老人医療費無料化による受診しやすさ効果でした。
 大蔵省は「一部負担を導入して受診・入院を抑制するように」と矢の催促です。その一方で、日本医師会や野党、世論は「一部負担などとんでもない!」と猛反対です。四面楚歌の中で、厚生省は、事務次官を本部長とする老人保健医療対策本部をつくり、その責任者として吉原さんに白羽の矢がたったのでした。
 紆余曲折の末、81年5月、老人保健法案が国会に提出され、82年8月本会議で可決成立しました。9月には公衆衛生局に老人保健部が創設され、吉原さんは初代の部長に就任して老人保健法実施の指揮をとりました。

 83年8月、児童家庭局長になってこの分野を去ることになった時、心残りなことがありました。そのことを、吉原さんは「老人保健法制定経過等に関する資料収集委員会記録」の座談会でこう述べています。
 「医者も看護婦もあまりいなくて医療体制が不十分なのに老人ばかりを、ただ入れただけで過剰な注射や検査をしてやたらに儲けている病院をなくさないといけない」
 吉原さんが、89年に介護対策検討会をつくったのは、このときの思いからでした。
 「望まれているのは老人病院ではなく介護だと気づいたのです。事務次官になったら介護に光をあてようと密かに決意していました」

 社会保険庁長官をへて次官に就任するや、吉原さんは政策課長の横尾和子さん(現・最高裁判事)に介護対策検討会の構想を打ち明けました。人選については、「座長は福武直東大名誉教授に」とだけ指示し、その他のメンバーは横尾さんに一任しました。福武さんは、社会保障研究所長もつとめ、吉原さんが年金行政にたずさわっていた時代の相談相手でした。それだけでなく、要介護状態の良子夫人に3年前に先立たれ、この問題に関心が深かったのです。

「霞ケ関に時限爆弾をもちこむような気分」

 審議会や委員会には「かくがわ(各側)」といって、財界代表、医師会代表といった業界利益代表が並ぶのがしきたりです。横尾さんは、それとはほど遠い人々を集めました。

 第1のグループは、サービス提供の現場にいた、当時は無名に近い「若手・草分け4人組」です。
 日本のデイサービスの草分け、弘済ケアセンター所長の橋本泰子さん(現・大正大学教授)、老人保健施設の草分けで、重いリウマチのため車いすを利用するお医者さん、矢内信夫・南小倉病院長(故人)、千葉の稲毛ホワイエという痴呆デイケアの草分けを支援していた中島紀恵子さん(現・新潟県立看護大学学長)、特別養護老人ホーム次長の石川三義さん。

 第2のグループは「制度・財源三羽がらす」。
 国際課長補佐時代に人工透析が必要な身となり学者に転身した堀勝洋・社会保障研究所調査部長(第2話にも登場、後に上智大学教授)、介護保険に縁の深い西独の日本大使館勤務と厚生省老人福祉課長の経験をもつ古瀬徹・日本社会事業大学教授(現・東京福祉大学教授)、山崎泰彦上智大助教授(同大教授をへて、現・神奈川県立保健福祉大学教授)、いずれも、「介護サービスの財源として社会保険方式を考えてはどうか」と発言していた人々。厚生省がこの時点から税財源に見切りをつけ、「公的介護保険」を構想していたことが分かる布陣です。

 残る3人は、老人保健法制定時の吉原さんの同志で第8話にも登場した元医務局長の竹中浩治さん、民間企業の事情に詳しい長銀調査部長の町田洋次さん(現・ソフト化経済センター理事長)、それに、福祉の世界ではまったくの新参ものだった私。日本型福祉を批判し、「日本の寝たきり老人は、『寝かせきり』にされたお年寄り、高齢化の先輩国には寝たきり老人という日常用語はない。その秘密はかくかくしかじか」と朝日新聞でキャンペーンしていました。

 横尾さんは二児の母。労働時間短縮のきざしもない職場で、子連れ出勤の苦労も味わった苦労人です。日本型福祉のもとでヨメと呼ばれる人が苦労している事情を知り抜いていました。そして、実は、東京・世田谷にある同じ小学校と中学校で1年後輩だったよしみから、私の社説や連載を丁寧に読んでいてくださっていたのでした。
 とはいえ、当時(いまも?)、私は厚生省にとってあつかいにくい存在だったようです。横尾さんは、そのときのことを91年9月に朝日新聞が開いた「女性による、すべての人のための高齢化国際シンポジウム」でこんな風に表現なさいました。
 「それは、霞ケ関に時限爆弾をもちこむような気分でございました」
 第一回の検討会の日取りも決まっていた7月2日、思いがないことが起こりました。福武さんが心筋こうそくで急逝したのです。福武さん同様、吉原さんの信任あつかった伊藤善市東京女子大教授が座長に迎えられました。

どこでも、いつでも、質の良い24時間安心できるサービスを、気軽に

 私はこのチャンスを生かそうと懸命でした。介護の質と量が違うとお年寄りがどう変わるかについての図を描いたり、「介護をめぐる9つの誤解」という挑発的なレジメをつくったりして配りました。

介護をめぐる9つの誤解
1989年介護対策検討会・配布資料 大熊由紀子 
@ 自分が倒れても妻か息子のヨメが介護してくれるから大丈夫。(男性の政治家・男性の行政官・男性のジャーナリスト)
A 自分は、食事に気をつけ、アタマを使い、体をマメに動かしているから「寝たきり老人」や「ぼけ老人」にはならない。(多くの日本人)
B 在宅医療・在宅福祉は家庭介護が前提。(日本のお医者さん・日本の行政官)
C ホームヘルパーの勤務時間は昼間の8時間でよい。(日本のこれまでの行政)
D うちの女房だってやっているのだから介護なんてだれでもできる。それを資格なんて。(某省元事務次官)
E 介護には、おおいに外人労働者を活用すればいい。なにしろ安いですから。(某省高官)
F ボランティアを介護に活用すれば、費用面の問題を解決できる。(某財界人)
G 日本人は、家庭内に介護が入るのを好まない。(現場にウトイ行政官)
H 福祉先進国なみのホームヘルパーを揃えたら、財政的にとんでもないことになる。(心配症の行政官)
 検討会には吉原次官がかならず出席し、「現場にウトイ行政官」「心配症の行政官」などという穏やかでない私の発言にも、優しくうなずきながらきいてくれました。次官が毎回出席するせいか、関係課長も毎回熱心にメモをとっていました。
 ここには配布資料の見出しだけを掲げてありますが、現実の資料には解説をつけました。たとえば、Aにはこんな説明をつけました。

 いま「寝たきり老人」「ぼけ老人」と呼ばれている人のほとんどが、自分の身に降りかかるまでは「自分は大丈夫」と信じて介護問題に関心がなかった。
 「寝たきり」「ぼけ」になるかどうかは
「クジ運」×「介護の質と量」×「医療の質」×「社会資源の質と量」に左右される。
 「クジ運」は変えられなくても、その他のファクターは行政と政治の力で変えることができる。個人の努力では難しい。基盤となる特に重要なファクターが、「介護」。

 この部分に、山崎泰彦さんが「我が意を得たり」と発言をもとめました。
 「クジ運ということは、社会保険になじむということですよね」
 そして、「この9つは、そのまま本の章になっています。がんばって本にしてください」と励ましてくださいました。その言葉に力づけられて書いたのが『「寝たきり老人」のいる国いない国』です。社員2人の零細出版社ぶどう社がだしてくださったのですが、目下27刷、10万部を超えました。「ホームヘルパーが朝、昼、晩現れる」「〇〇床の施設と〇〇室の施設」「在宅福祉3点セット」「法律破りをどうぞ、という制度」など、この本で提言したことのかなりが介護保険やその後の政策で実現することになりました。

 半年間に9回の論議を重ねたこの検討会の報告書を40ページの冊子に纒め上げたのは、横尾さんの右腕、企画官の柴田雅人さん(現・内閣官房内閣審議官)でした。
 柴田さんは、三重県庁に老人福祉課長として出向していたときには痴呆ケアのパイオニア、小山田特養と協力して痴呆のお年寄りの問題に取り組み、厚生省にもどってからは医療保険にも取り組みました。この問題の事務局に打ってつけの人物でした。
 89年12月14日に公表された報告書(ワードWordファイルの資料)は日本型福祉に反逆するものでした。抜き書きしてみます。

・介護にあたる家族が負担だけ感じ、要介護者も遠慮と不満ばかりが専攻するような家族介護は双方にとって不幸である。
・「在宅サービスなしにお互いに無理を重ねる家族介護」から「在宅サービスを適切に活用する介護」への発想の転換が重要だ。
・どこでも、いつでも、的確で質の良い24時間安心できるサービスを、気軽に受けることができる体制をめざすべきである。
・要介護者の自立を助け生活の質を高めるようなサービス内容をめざすべきである。そのためには、福祉機器、住環境、まちづくりの整備も不可欠である。
・住民に身近な市町村を中心に施策を展開すべきである。
・財源、制度については、公費、社会保険料、双方の組み合わせのいずれにするか検討をすすめ、国民の合意形成につとめるべきである。

 「どこでも、いつでも、的確で質の良い24時間安心できる」−−当時としては「まるで野党案みたいだった」と関係者の誰もが述懐する内容です。高齢者介護対策本部事務局次長として「高齢者介護自立支援研究会報告」の案文を書いた山崎史郎さんは、「あれを書くときに、もっとも参考になったのがこの報告書でした」と打ち明けます。
 介護対策検討会の思想は、介護保険法の創設につながってゆきました。

老人保健法創設のノウハウが介護保険法に

 老人保健法も実は、介護保険と縁が深いのです。
 80年に吉原さんが老人保健医療対策本部担当審議官になったとき、事務局のカナメになったのが第1話に登場した堤修三さん。のちに介護保険担当審議官、老健局長となって「介護保険育ての親」と呼ばれることになります。
 事務局長にスカウトしたのが、古川貞二郎国保課長(後の内閣官房副長官)でした。古川さんは、このときの経験から、事務次官になったとき、高齢者介護対策本部を立ち上げ、介護保険に道を開いたのでした。
 介護保険法成立のノウハウは、実は、80年の対策本部にあったのですが、それは、別の機会に。

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