倫理の部屋

イタリア精神保健改革早わかり(7月2日授業資料)
大熊一夫

昨年10月に岩波書店から出した拙著『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』。いま5刷りです。書評や著者インタビューは15本を超えました。しかし、「字が多すぎて読むのがしんどい」「字が小さすぎて老人向きではない」「薬でぼやけたアタマでもわかるように書いてほしかった」……などの感想をいただきました。そこで、『イタリア精神保健改革早わかり』をお届けすることにしました。

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イタリア精神保健改革の立役者は、精神科医フランコ・バザーリアです。
パードヴァ大学の精神医学教室で教鞭をとっていた彼は、教授からゴリツィア県立マニコミオ(イタリア語で精神病院のこと)の院長になるよう勧められます。現象学とよばれる難しい哲学を精神医学に導入しようとする風変わりな気鋭学者は、古いアカデミズムになじめなくて、厄介払いされたのでしょう。37歳でした。

バザーリアは、マニコミオの正体を知りませんでした。バザーリアに限らず大学精神医学の教官たちは、精神病棟に幽閉された人びとに思いをはせることもなく、精神医学を講義していました。象牙の塔の関心の的は、「精神病の人々の人生」より「精神疾患そのもの」だったのです。この倫理的にみて問題含みの傾向は、半世紀たった今日でも、世界中にみられます。

マニコミオがどんなところか知りたかったバザーリアは、シーツ回収人に化けて院内をくまなく観察します。阿鼻叫喚の地獄絵を目の当たりにします。「ここは監獄だ」と気づきます。"看守"になるつもりのない彼は、"監獄"をぶち壊すか、就任を辞退するか、妻フランカ・オンガロ・バザーリアに相談します。フランカはマニコミオの収容所臭さを嫌悪する社会学者で、後にゴッフマンの世界的名著「アサイラム」のイタリア語翻訳者となります。

こうして1961年夏、院長になったバザーリアが、最初にオカシイと思ったのは「精神科医の特権」でした。精神科医が、患者に「自傷他害の疑い」をかけて有無を言わさず鉄格子のあちら側へ送り込んだり、強制治療したりしている限り、本当の治療関係は成立しない、と喝破したのです。
改革の手始めに、彼は、自分の考えに共鳴してくれる精神科医や臨床心理士を集めました。同志は、最後には8人ほどになりました。この人びとは後に北イタリアの都市に散って、トリエステと並行して改革を進めることになります。

当時のマニコミオは強制入院オンリーの収容所でした。彼は、この強制的な空気の払拭に努めます。バザーリア主義を象徴するスローガン「自由こそ治療だ!」の始まりです。1968年にイタリアの精神衛生法が部分改正されて自由入院が許されました。当初約800人もいた入院者は、300人ほどにまで減りました。
しかし、マニコミオを管理するゴリツィア県当局は、院外に患者用住居をつくることに消極的でした。そこに不幸な事件が起きました。外泊した男性が妻を殴り殺したのです。「院長の思想が事件を引き起こした」という理屈で、バザーリアも被告席に引き出されました。裁判は無罪判決でしたが、彼は詰め腹を切らされ、ゴリツィアを去ります。1969年のことでした。

トリエステ県代表のミケーレ・ザネッティ(キリスト教民主党左派)は、こんなバザーリアを県立サン・ジョヴァンニ病院の院長に迎えました。「彼の実績や書いたものからみて、あのサン・ジョヴァンニ病院の状況を変えるには、この男しかいないと思った」そうです。1971年でした。
バザーリアは、入院者を有形無形に縛っていたもの取り払いました。と同時に、ゴリツィア県政権下では許されなかった「病院の外での支えつくり」を、トリエステ県政権に認めさせました。ザネッティはバザーリアの好き放題にさせたのです。
といっても、長い幽閉で社会性を喪失した人々ばかりです。人間が社会人として生きるうえで必要な『コミュニケーション能力』が減退してしまった人たちばかりです。社会に戻る意欲も失せています。

そこで奨励されたのが患者集会でした。不満だろうが要求だろうが、とにかく思いのたけを吐き出す場。イタリア語で「アッセンブレア」と言います。バザーリアたちは、マニコミオを縮小・閉鎖するうえで一番大事な"儀式"だと考えて、ゴリツィア時代から頻繁に開きました。初めは、とりとめのない話ばかりが噴出しましたが、1年もすると格好がついてきました。集会を仕切る指導的人物が現れました。入院者たちの表現力がめきめき回復していきました。

バザーリアたちは、ある数の患者を退院させると、それに見合う職員を院外に出し、支援の拠点として外に精神保健センターをつくりました。最終的には7つのセンターができて、1978年には病院はほぼ空っぽになりました。
センターは重い病人を在宅で支えるために、1975年以降、24時間、365日オープンになりました。この「24時間、365日オープン」こそが、精神病院に代わる機能と言えるのです。
2001年の統計によると、イタリアに707カ所のセンターがあるのですが、そのうち「24時間、365日オープン」は50カ所。他はほぼすべて「12時間オープン、日曜祭日休み」です。閉まっている夜間や休日は、総合病院内の精神科病棟が対応しているのです。

1960年代末からの約10年間の時代、イタリアは社会的・政治的大高揚期でした。職種を超えて社会運動が盛り上がり、巷には怒れる若者があふれました。社会変革を叫ぶ大勢の若者がバザーリアに共鳴して、サン・ジョヴァンニ病院に集まりました。彼らは主戦力として活用されました。
もうひとつ見逃せないのは、『民主精神医学』という運動です。中心にバザーリアたちがいるのですが、政党、労組、裁判官、学者、市民などを横断的に巻き込んだ国際的大運動になりました。「精神病院はなくせるぞ」という空気を、精神保健専門家の枠を超えて根付かせたのは、この運動のおかげです。

そして決定的な役割を果たしたのが、政権党のキリスト教民主党と、第二党のイタリア共産党でした。なんと共産党が閣外協力しました。この時代は「モメント・フェリーチェ(幸福な時)」と呼ばれます。
こうして「精神病院をなくす法律」制定の苗床ができました。キリスト教民主党の後ろにバザーリア、イタリア共産党の後にアゴスティーノ・ピレッラ(ゴリツィア時代の一番の仲間)が控えていました。1978年5月、180号法がほぼ全会一致で国会を通りました。
革命的な精神衛生法でした。いや、精神衛生法の根本概念をぶち壊す新法、というのが当たっています。精神衛生法は精神科医や精神病院に特殊な権力つまり強制入院・強制治療の権限を与えた法律ですが、180号法は権限に大幅な制限を加えました。強制入院させる先の病棟も消滅させました。

日本に置き換えてみれば、いかにすごい法律かがわかります。日本の精神保健福祉法(昔は精神衛生法と言った)によれば、精神科医は「自傷他害の疑い」を抱けば患者を有無を言わさず鉄格子の向うに放り込むことができます。これは、治安の責任を精神科医が担っていると言えます。しかし180号法は、精神科医を治安の責任から解放したのです。 バザーリア自身は、精神科医の強制治療の特権を完全に消去した180号法にしたかった。しかし共産党が賛成しなかったために引きさがった、のだそうです。だから、「精神科医が主人で患者が召使では良好な治療関係を築けない」というバザーリアの精神が、180号法で完全には生かされているとはいえません。

しかしバザーリア派と呼ばれる医師たちは、今でもバザーリア精神を忠実に守っています。患者とはキミボクの関係を大事にします。白衣を着ません。総合病院精神科での身体拘束にも、電気ショック療法にも、有無を言わせぬ「強制」にも絶対反対です。イタリア半島はバザーリア派一色ではありません。守旧派も、中間派もいます。ですから今も、あちこちで摩擦の火花が散っています。

強制治療はありますが、極めてやりにくくなりました。二人の医師(一人は地域精神保健局所属)が必要だと認定すると、市長の承認をもらい、市長は裁判官の承認をもらう。しかも期間は1週間と決められ、延長にはまた同じ手続きを踏まなければなりません。地域精神保健センター以外の施設(カーサ・ディ・クーラと言われる"私立精神病院"など)では強制治療は許されません。
では現在のトリエステの精神科医は、どんな風に"強制治療"するのか。
簡単にいえば、『信頼関係』と『抱擁・スキンシップ』と『説得』と『笑顔』で、乗り切っています。人手と根気と寛容が要求されますが、これは良質な精神保健を遂行するための大事なコストと言うわけです。

180号法ができて半年後の1978年12月、イタリア精神保健にとってもう一つ大事な改革がありました。それまでの無秩序な医療供給体制(日本はまだこの状態だ!)を根本から改革した国民保健改革法833号法(新医療法)の制定です。国土(人口ざっと5500万)を約150の保健区に分割し、日本と同じ社会保険方式の保健予算を区住民の数に比例して分配するようにしました。これで国民は、医療・保健を平等に受けられるようになりました。保健区は、当初は地方保健機構と呼ばれましたが、運営組織上の欠陥が露呈し、後に地方保健公社に改められました。公社は、州の支配下に置かれました。それまでタリア精神保健は県の役目だったのですが、180号法は「県から州への移管」をうたっています。

地域サービス網構築に関して、イタリアはヨーロッパの後発国でした。英国やフランスや北欧はとっくの昔から、この平等なサービス供給方式を踏襲してきました。ですからイタリアの833号法は目立ちません。しかし、この改革が180号法に生命を吹き込みました。各保健区の公社にはマニコミオに代わるものとして精神保健局の設置が義務づけられ、精神保健局の下には人口数万に1カ所の割合で地域精神保健センターが配備されました。
833号法ができると、180号法は833号法に合併吸収されました。精神衛生法は精神病の人々を強引に収用できる罪作り(宇都宮病院や大和川病院を見よ!)な特別法ですが、180号法で収容機能が消滅したため、特別法の意義を失って小さな法律になった。だから、医療法にすんなり組み込むことができたのです。

さて、180号法ができてからのイタリア精神保健は、波乱の時代を迎えます。1980年夏、バザーリアは脳腫瘍で他界します。国会には、180号法の修正や廃止を目論む法案が、矢継ぎ早に提出されます。上院議員になったバザーリアの妻のフランカは、バザーリア派の家族会と組んで、獅子奮迅の活躍をします。だが、命運尽きたかにみえた80年代末、政権党の大汚職が発覚します。政権を担っていた諸政党が全て地方選挙と国政選挙で国民の怒りの洗礼を受けて消滅してしまいます。

俄然、180号法に追い風が吹きはじめました。
1994年、精神保健擁護3か年計画の大統領令が打ち出されます。「擁護」とは180号法の精神を守る、という意味です。実施要項が具体的に書かれています。精神保健に従事する職員の数やケア付きグループホームの数は、人口に比例した数の設置が義務つけられました。精神保健センターの役割は14項目にわたって克明に表現されました。
1998年には、これを補うための3か年計画も打ち出されます。保健省は「98年末までにマニコミオを閉鎖できない州は予算の0・5%をカット」と州に圧力をかけます。そして翌年3月、保健大臣はイタリア半島からマニコミオが完全に消えたことを宣言したのです。

21世紀になると、精神保健不毛の地といわれたイタリア南部に、2つの大きな変化が起きました。一つは、カンパーニャ州のナポリの隣のアヴェルサに、も一つはサルデーニャ州の州都カリアリに「24時間、365日オープン」の最新鋭精神保健センターが登場しました。いずれも中道左派勢力が州政権について、トリエステのバザーリア派に改革を委ねたのです。しかしサルデーニャ州は2010年になって右派が政権を奪還したため、24時間オープンが12時間…に逆戻りしました。
イタリア精神保健改革が「完全勝利した」と言えないのは、まだ、こんな守旧派勢力の支配地域が南部を中心にして残っているからなのです。

(精神保健ミニコミ誌クレリィエール521(2010年8月号)より転載)

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