精神医療福祉の部屋

精神病院をなくした国イタリアの安全ネット
大熊一夫さん(ジャーナリスト)2007.11.30

■デイセンターで和食教室の講師に■

 ローマのマニコミオ(精神病院)がなくなった今、精神病の人々と社会との接点はどうなっているのか。
 そこが知りたくて、サンパウロ教会に近いデイセンターに「利用者たちとお近づきになりたい」と申し入れてみた。(イタリアではこんな場合『患者』とは言わない。社会サービスを利用する人という意味で利用者〔Utente〕なのだ)。
 すると、「君には利用者に教えられる特技はないかね」と聞かれた。
 とっさに「日本料理なら……」と答えてしまった。私は小学6年生のころには料理上手の母親のレパートリーをほぼマスターしてしまったほどの腕前だ。芸は身を助く。かくして、和食教室講師をつとめることになった。(下の写真の右側は、デイセンターの利用者ジュリアさん)

 といっても、ここはスパゲッティとフライパンの国。包丁もまな板も食器も、日本料理にはきわめて不向きである。早朝、市場で和食に使えそうな素材を物色し、センターの厨房の調理器具をあれこれ思い浮かべつつ、献立を決めた。スピーゴラ(スズキ)の押し寿司、セッピア(甲イカ)のてんぷら、ガムベレッティ(小エビ)の茶わん蒸し、ボンゴレ(あさり)の深川めし……。米と鰹節の食文化の奥深さを少しでも理解してもらえたら、と腕によりをかけた。
 かつて高級レストランのシェフだったロザルバ・エピファーニ講師や利用者の面々は、「ブオーノ(おいしい)」「ブラーヴォ(素晴らしい)」と言ってくれた。こうしてデイセンターの皆さんと親密になれて、いろいろ見えてきた。

■生協と福祉の切っても切れない縁■

 これはすごいぞ、と思ったのは『生活協同組合』(コーペラティーヴァ)だった。ロザルバは教育士の資格も持っていて、二つの生活協同組合を運営している。一つは、パーティー料理の仕出しを商う生協『アベチェダーリオ』。もう一つは、赤ん坊から学童までを預かる保育園風の生協『カンティエーレ・インファンツィア』(子どもの仕事場)。
 そしてデイセンターで料理の腕前をあげた利用者たちが、二つの生協でプロとして仕出し料理を下ごしらえしたり、学童料理教室を手伝ったりしているのである。
 デイセンターで利用者の昼食40食を毎日作るほかに、パーティー料理の仕出しで稼ぐ。写真は、「カンティエーレ・インファンツィア」の庭で開かれた近隣住民の誕生パーティー。写真中央がシェフのロザルバ、両側は利用者だ。
 生協には開業資金補助や税金免除といった特典が法律で定められていて、財力のない庶民が比較的簡単に事業を起こせる。イタリア社会をよく見れば本当に生協だらけ。イタリア流にいう『社会的に不利な立場の人々』のリハビリの場は、ほぼすべてが生協がらみである。生協なら、経営者や株主が利益を独り占めする日本のコムスン会長欲張り事件のようなことは絶対に起こりえない。

■政権交代で改革は普及実用化期に■

 これは左翼が強いイタリアならではの現象かもしれない。イタリアは右派と左派ががっぷり四つに組んだ国だ。右翼も強いけれど左翼もものすごく強い。国政は右か左かどちらか一つだが、20ある州政府を眺めれば、明らかに修正社会主義が幅をきかせている。
 こんな政治風土の中で、デイセンターは零細企業的な諸々の生活協同組合と堅く結びついて、ガラス工芸、印刷、裁縫、園芸、料理……と幅広いメニューを用意することができるのである。利用者の病状によっては、暇つぶしの場所になっていることもないではないが、ま、これは仕方のないことだ。

 このような、精神病院に代わるさまざまな装置が本格的に普及し始めたのは、実は21世紀に入ってからだった。
 「精神病院への新入院まかりならぬ」と決めた1978年の180号法ができてからの15年間というもの、国の地域精神保健計画らしいものはなんにもなかった。トリエステ県のように独自に天才的発展を遂げたところがある一方で、古い精神病院をだらだらと使い続ける州や県もたくさんあって、『精神保健改革は豹の模様』といわれてきた。

 1990年代初頭、構造汚職まみれの連立与党(キリスト教民主党、社会党、社会民主党、自由党、共和党)が地方選挙で大敗北し、続く94年の総選挙で消滅した。すると80年代の福祉の停滞が嘘のように改革の風が吹き始めた。
 94年の「精神保健の防衛3年計画」と、それに続く98年からの3年計画は予算に裏うちされた「国策」だった。これが地域精神保健システムをイタリアの隅々に普及させる革命的な効果をもたらした。
 イタリアの精神保健改革は20世紀で壮大な実験を終え、21世紀は普及実用化の時代に入った。

■国、県の責任で全土に■

 もうひとつ、90年代の初頭に医療システム全体の改革があった。地域医療のすべてを管理する『地域保健サービス公社』(ASL)が州政府の下にできた。公社は人口10万から50万人に区割りされた地域に一つ設けられた。たとえば人口450万のラツィオ州には12、その州都ローマ市には5つ、という具合に。
 その公社の下の精神保健局の采配で、精神病の人々を支えるための医療・福祉資源のネットワークが築かれていった。
 諸々の精神保健サービスの司令塔は精神保健センターだ。
 ASL−ローマC精神保健局のホームページには、その役割が克明に書かれている。

精神保健センターの役割

◆精神医学的・心理学的訪問◆個人・カップル・グループ・家族への精神療法◆家族支援◆精神科的危機状況への介入◆医師など専門家への相談◆一一八番通報との協力◆証明書の発行◆薬剤療法◆社会サービスの斡旋◆諸々のサービス網の斡旋◆デイセンターなどへのリハビリの斡旋◆コムニタ(治療共同体)の運営、支援、入所照会◆カーザ・ディ・クーラ(私立精神科看護ホーム)への紹介と管理◆家族会への誘い◆ボランティアの育成◆全体の質の向上のための計画◆夏休みプランの企画

 こうした司令塔がラツィオ州には69カ所、ローマ市には28カ所、人口約45万のASL−Cには4カ所ある。日曜を除く週6日、朝8時から夜8時まで開かれる。北イタリアなどに比べるとかなり見劣りするのだが、その話は次回に。
 センターとの連携で重要なのが精神科救急(精神科診断治療サービス)の入院ベッドだ。
「総合病院に15ベッド以内の規模で設けるべし」と、精神病院の廃絶を決めた180号法(1978年)は定めている。精神科を他科と同列に扱い、長期入院は避ける……という点がミソである。ラツィオ州全体で、25棟27床、ローマ市で10棟124床、ASL−Cで2棟31床。
 イタリア全体を眺めると、身体拘束あり、なし、いろいろだが、この問題も追々レポートする。

こうした90年代の計画は、国や州に責任を持たせて全国に精神保健の安全ネットを張り巡らせようとした点が、最大の見どころである。(続く)

〈おおくま・かずお ジャーナリスト。元朝日新聞記者、元大阪大学大学院教授。『ルポ・精神病棟』『ルポ老人病棟』『ルポ・有料老人ホーム』『新ルポ・精神病棟』(ともに朝日新聞社刊)など著書多数〉

週刊金曜日第681号 2007年11月30日/「ルポ・精神病院をぶっこわした国イタリアGローマ発/国と州の責任で全土に張りめぐらす精神保健の安全ネット」より)

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