精神医療福祉の部屋


(朝日新聞科学部記者だった1971年に書いたものです。先輩記者たちと書いたこの連載は、朝日文庫に納められています。表記は、肩書、病名を含め、当時のままです)

「神田の古本屋で偶然手に取った精神医学の教科書。――石田昇という少壮医学者の書いた、いま読んでも魅力的なこの本がきっかけで、私は精神科医の道を選びました。
 そして勤めた松沢病院で受け持ちになった患者さんたちの中に、……なんとその石田先生がおられたのです。分裂病を病む患者として」
 秋元波留夫東大名誉教授は、35年前のその日のことをいまもあざやかに覚えている。

 発病して20年目の石田氏は、だれもそばに寄せつけず、からだはよごれ放題……。それでいて精神科医として、ときにすばらしいひらめきのあるアイデアを口にするのだった。
 東京帝大卒業後、精神科医となった石田氏は、三年目にもう教科書を書くという秀才だった。31歳で長崎医専教授。そして、41歳のとき文部省から派遣されてアメリカのジョンズ・ホプキンス大に留学。
 悲劇はその数ヵ月後に始まった。
 ことばの壁、異質な文化……。異国という状況はしばしば簡単に人の心を狂わせる。それも出発前には狂気のカゲさえなかた人びとを。
 石田氏は「病院の看護婦長は自分を恋している。それなのに同僚のアメリカ人が邪魔をする」と口ばしった。妄想は深まり、このアメリカ人医師を「日米の仲をさく国のかたき」と信じこんだ。そして10年。
 日本に送り返され、松沢病院に入院したときは「生けるしかばね」になってしまっていた。

 長崎大・高橋良教授は、戦後、アメリカ留学中に精神病になり、自殺をはかったりして強制送還されたフルブライト留学生たちを診察したことがある。このとき、教授は異国という状況がいかに人の心を狂わせ、一方、ふるさとが狂った心をどんなにいやすかを目のあたりにみた。
「英文学者、医師、高校生……。5人の留学生を診察しましたが、どの人の場合も日本に帰ってきたときには、いかにも精神病らしいかたい表情でした。アメリカでは重症の分裂病、重症のうつ病と診断され、要入院のレッテルをはられていました」
 ところが、4人は家族と水いらずで休養しただけで、みるみる回復し、残りの1人も5ヶ月の入院で元通りの健康に戻った。

 いま、5人は大学の講師や一流企業のエリート社員として活躍している。しかし、もしかれらが、ただちに帰国せず、異国で入院しつづけていたら、石田氏と同じ運命をたどったに違いない。
「留学生たちと同じように発病し、異国の精神病院に今いる戦争花嫁たちの運命がそうだ」と高橋教授はいう。

 人間は、自分でも気づかぬうちに、自分をとりまく空間や文化、人間関係、仕事のなかなどに根をはやしている。移植された植物がときに枯れてしまうように、状況の急激な変化は人を狂気に追いこむほどの心の負担になる。
 大都会に就職した直後、分裂病になった能登半島の青年たちは、都会の精神病院に入院中には、慢性化するばかりだったが、故郷の精神病院に転院すると、たちまち回復にむかい退院した、と金沢大の萩野恒一教授は報告している。

 結核やハンセン病はかつて遺伝病と呼ばれた。たしかに結核の母の子はしばしば結核になり、この説はもっともらしくみえた。病気の原因がはっきりわからぬ時代には人びとは、すぐ遺伝を持ち出す。精神病もその例外ではなかった。
 しかし、ナチに迫害された500人のユダヤ人たちの精神医学的調査を皮切りに精神病の遺伝説は大きく後退した。
 逆に、状況が心に及ぼす強烈な刻印が病気を生むことが明らかになった。かれらの75%が強制収容所症候群と呼ばれる、慢性の、なおりにくい精神病にかかっていた。妄想、不安、悲哀感、恐怖、のめりこむようなゆううつ、耐えられない孤独感……。だが、その病状は、遺伝的素因ではなく、迫害を何歳のとき、どのくらいの期間受けたか、解放されてからどう暮らしたか左右されていた。
 ちょうど結核にかかるかどうかが、遺伝的な素質よりも、まず、結核菌を何歳のとき、どのくらいの量吸い込んだかによって決まるように。

 いま、日本のホワイトカラー族には、GNPの伸びと足並みをそろえて、うつ病患者が急増している。うつ病はまた動機なき自殺を誘う。
 日銀マンの精神衛生管理を手がけている平井富雄東大分院医長は鋭くその背景を指摘する。
「能力開発、実力主義、創造力……。一見人間性を開花させるような装いをこらしながら、実は激烈な競争にしのぎをけずらせる。そういう状況を企業はつくり出している。頭がおかしくならない方がおかしいという状況のなかで、人間の心がむしばまれていく。危険だ」と。
 そして、このうつ病にかかる人びとには、ある共通の生きかたが発見されている。きちょうめんで仕事熱心、責任感が強く、ごまかしができない。ズボラになれない、粘りづよい人間……。
 かれらにとって、現代社会は"異国"なのだろうか。

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