物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

第46話 岡光序治さんの『睨み』と『重し』 (月刊・介護保険情報2008年2月号)

■タコ部屋の花婿■

 「物語」を再び、厚生省の高齢者介護対策本部に戻します。
 「ここから生きて出よう」「毎日徹夜、未明に会議」という、労基法無視の過酷な日々については第43話でお伝えしましたが、この1996年に1つだけ、おめでたい話がありました。
 見取り図の中ほど、廊下側に載っている朝川知昭さんの結婚式です。
 現実の朝川さんは13階の通称「13サティアン」ではなく、厚生省と農林省の隙間に建てられた安普請の「タコ部屋」で、昼夜ぶっ通しで条文書きに励んでいました。
 タコ部屋の責任者は伊原和人さん。いまは、内閣参事官として官邸で総理のサポート役をつとめる伊原さんの証言によれば−−

 「朝川君は結婚式当日も、朝4時過ぎまで作業をしていました。他のメンバーもタコ部屋から式場に向う始末です。主賓の岡光さんは挨拶の中で、このことを暴露した上で『式が終わったら、彼らは、また、サティアンに戻って仕事をするそうです。一体、上司は何をやっているんでしょう』とのたまわったのです。新郎側の厚生省関係者には大受けでしたが、新婦側がすっかりひいていました」

 実は、新婦の父上、「タコ部屋」とやらに式のあと新郎が戻っていくのなら、この縁組はご破産に、と秘かに思ったそうです。幸いこの日だけは新郎はタコ部屋に戻ることなく、破談は免れました。
 大臣秘書官をへて、いまは、少子化対策企画室室長の朝川さんに聞いてみました。
 「岡光さんの祝辞は30分くらい続きました。私自身は眠くてほとんど覚えていませんが、後日、妻から聞いたところによると、仕事の話ばかりで、これにも、新婦の親族は肝をつぶしたそうです」

■「政府部内、政治家、医師会も一目」の秘密は?■

 「岡光さん」とは、岡光序治さん。老人保健福祉部長、薬務局長、官房長をへて、当時は保険局長でした。結婚式の半月後の96年6月24日には、菅直人厚生大臣から事務次官に任命されることになります。
 介護保険について省外はもとより、省内の調整で苦労しつくし、いままた、内閣府で経済財政諮問会議で苦労している山崎史郎さんは、岡光さんと介護保険の切っても切れない間柄について、こう語ります。
 「当時の岡光さんは省内はもちろん、政府部内や政治家、医師会などの関係団体も一目置く状況で、一言で言えば、『睨み』が効いていました。個々の政策をどう判断したかというのではなく、政策方針の統一の『重し』の役割を果たしておられました。介護保険のような激動の時代には、こうしたリーダーシップが非常に重要でした」

 ただ、岡光さんの『睨み』『重し』が具体的に、どのようなことなのか、なぜ、睨みがきいたのか、どうやって、そのワザを身につけたのかは、誰にきいてもわかりません。
 私が、朝日新聞の科学部のデスクから厚生行政担当の論説委員になった84年にプレゼントされた分厚い「虎の巻」を開いてみました。
 当時の社会部厚生省担当、本沢義雄さんがつくってくださったものです。
 生活衛生局企画課長のところに岡光さんの名前があって、こう、記されていました。
 「若手のやり手」「将来の次官」「大物」「A」。Aは、「常に要注意」の印です。
 ただ、本沢さんは、若くしてこの世を去っていました。「なぜ、岡光さんが44歳で将来の次官と目されていたのか」を尋ねることは不可能でした。
 岡光さん自身に聞いてみるしかありません。
 青山の国際医療福祉大学大学院の静かな部屋で3時間近く、その後も電話で根掘り葉掘り尋ねました。そのうちに、ご本人も気づいていなかった『睨み』と『重し』の秘密がおぼろげながら解けてきました。

■セツルメントの代々木・反代々木闘争■

 岡光さんと私には、1つ共通点があります。岡光さんは1歳のとき、私は6歳のとき、肺結核で父を亡くしました。当時は「肺病」と呼ばれ、忌み嫌われていた病気です。
 私は「ひとに聞かれたら、決して肺病といってはいけない。遷延性心内膜炎といいなさい」と教え込まれました。岡光さんの場合はもっとひどく、「畳替えをしなければ、葬式は出せない」とまでいわれました。
 育英会の奨学金と家庭教師のアルバイトで大学を卒業したのも同じです。ただ、オーケストラに魅入られていた私と違って、岡光さんはセツルメント活動に打ち込みました。
 セツルメントとは、いまでいう、NPOやボランティア活動に似ています。生活に困っている人の多い地区に出かけていっては、法律、健康、生活の面倒を見たりする活動です。岡光さんは法学部だったので、借地借家法関係のトラブルの相談にのったり、こどもたちに無料家庭教師をしたりしていました。

 属していたのは、日本共産党系の診療所をベースにした菊坂ハウスでしたが、このころ、共産党系に反発する学生たちの勢力、いわゆる「反代々木系」が台頭してきて、代々木VS反代々木の争いが起こりました。代々木というのは、日本共産党本部が代々木にあったことからついた名です。
 「東大法学部で学んだことは、霞ケ関ではほとんど役にたちませんでした。それより菊坂ハウスでの主導権争いを身近で経験したことの方が、重みがあました」

 そのセツル活動の先輩、多田宏さんが前年厚生省に入省していて「来いよ」と勧められたこと、迷っているとき、同郷の池田勇人さんの夫人、満枝さんの「来てくれって言ってくれるところが一番いいんじゃないかしら」の一言で、厚生省行きを決めることになりました。
 その多田さんは、薬害エイズ事件の責任をとる形で96年に事務次官を辞任。岡光さんがその後任になったのですから、不思議な巡り合わせです。

 実は、この連載が始まったころ、多田さんからメールをいただきました。
 「社会的に批判をあびた人物だからということも十分承知の上ではありますが、岡光君は、この方面では相当の貢献をしているはずだという気が致します。連載で取り上げていただけるならば、望外の喜びです。」

■「毛皮発言」で、辞職勧告■

 厚生省に入った岡光さんは、社会局保護課に配属されました。
 セツルの経験からでしょうか。会議のたびに、「冗談じゃない、そんなかわいそうなこと、どうしてできるんですか」と突っかかって、たちまち"ちびっ子ギャング"という仇名をつけられました。
 「ところが、日がたつにつれて、違法な生活保護受給の実態を目のあたりにして、複雑な思いにとらわれるようになりました」
 「2年たって、異動の希望を聞かれました。もめごとの多い仕事がいいので保険局にいかせてください、といいました。ちょうど大山小山事件があったころです」

 それは、武見太郎日本医師会長が自民党に絶大な影響力をもっていた65年のこと。武見会長の意を受けた神田博厚相から事務次官の大山正さんに、「小山を切れ」という指示がくだりました。保険局長の小山進次郎さんは筋を通す人で日医のいいなりにならず、それが、武見会長の逆鱗にふれたのでした。
 大山さんの諫める言葉に耳を貸さない厚相。
 「大臣に反省を求めよう」と全局長が辞表をとりまとめて大山さんに持っていったのですが、大山さんは「責任はすべて私が」と受け取りません。一方、厚相は、「小山を切るなら私を」という大山さんの言葉を逆手にとって、大山・小山両氏をバッサリ更迭。
 次官に就任後わずか4カ月で大山さんは厚生省を去ることになりました。日医の勢力絶大だった時代でした。

 保険局の国民健康保険課で市町村を回って身にしみたのは、霞ケ関にいては見えなかった医療現場の貧しさ、出来高払いを悪用した不正請求、レセプトのチェックの甘さ、そして、医師会の理不尽さでした。
 「息子が私立の医大に入ると診療報酬の請求額が増える、腕が悪くて治療が長引く医師の方がたくさん請求できる、コメディカルとのチーム医療に不熱心、診療報酬を上げても看護婦さんたちに回らない。そんな医療界を反面教師に介護保険を構築しなければと思いました」
 この思いが、騒ぎをおこすことになりました。
 発端になった96年1月13日朝日新聞の記事を抜粋します。

 患者の世話を患者が雇った家政婦さんたちがする「付き添い制度」。廃止に取り組んで一年余が過ぎたが、国は現状をどうとらえ、対応するのか、厚生省の岡光序治保険局長(56)に聞いた。
 ――そもそも廃止は何のためだったのですか。
◆ねらいは、入院患者の介護は病院の責任とすることです。付き添いは患者が雇った人で、病院はその行為に責任をもたない。この体制は無責任でまずい。
 ――医療費を削るのが目的との批判があります。
◆そんなけちなことは考えていません。付き添いをつけたときに保険から患者に出していた費用、約1000億円は廃止のための財源に振り替えました。
 ――入院患者に対する看護職員の数などを定めた基準自体が低いのではありませんか。
◆本当に対応できないならデータを出してもらって議論したい。監査すると、ペーパー看護婦がいた病院もあります。
 ――厚生省は付き添い廃止をきっかけに国の基準を満たせない病院はつぶす考えだと聞きました。
◆生き残る道は二つ。専門性を追求して高度な仕事をするか、慢性病を対象にする療養型病床群や老人保健施設などへの転換を考えるか。医師は集まれば診療報酬が低いと怒っています。でも、上げても職員に回らず、奥さんの毛皮などに化ける病院もある。そういう病院からは職員も患者も出て、つぶすしかない。

 医師会、歯科医師会は猛反発。菅大臣に辞職勧告が持ち込まれました。
 ところが、こうした姿勢が省内の若手の人望を集めることにつながっていきました。

■栃木で育んだ折衝力と人脈■

 山崎史郎さんのいう「政府部内や政治家も一目置く」という人脈と折衝能力は、71年から75年にかけて栃木県庁に出向していた時代に培われたもののようです。最初は県衛生民生部児童家庭課長、1年後に社会課長、半年後、企画部開発課長。このポストは苦労が多く、前任の課長は過労死したという縁起の悪い椅子でした。次いで総務部財政課長。結局、4年、県のややこしい仕事に取り組むことになりました。

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