物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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第43話 毎日徹夜、未明の会議 (月刊・介護保険情報2007年10月号)

■「ここから、生きて出よう」■

 介護保険創設の作業が進むにつれて、高齢者介護対策本部のスタッフは2つの部隊に分かれました。
 本隊は、事務局長の和田勝さん、事務局次長の山崎史郎さん、補佐の香取照幸さんを中心とする外回り部隊。与党福祉プロジェクトをはじめとする政界、老人保健福祉審議会の委員、経済界や医療界、労働組合、関係省庁などとの折衝が担当です。

 もう一つが法案作成チーム、別名"タコ部屋部隊"。メンバーは、部屋の責任者、伊原和人さんと池田宏司さん、朝川知昭さん、野村知司さんの4人。
 伊原さんと朝川さんは、和田さんが官房総務課長時代の法令審査係長と係員。この係は、各局から上がってくる法案を国会に出す前にチェックするのが役割です。
 「高度な判断力と注意力が必要とされる仕事です。それをこの2人は見事にやってのけ、しかも、厚生行政への熱い思いがある。そこで、本部に引っ張ったのです」と和田さんは人事の背景を語ります。(朝川さんは、96年6月まで保険局と併任だったので、4月現在のこの見取り図には載っていません。)

 タコ部屋は、厚生省と農林水産省の隙間に建てられた安普請のプレハブの中にあり、95年秋からここに籠りました。冬は隙間風が吹き込み、寒がりの池田・朝川組は毛布を体に巻きつけながら、昼夜を問わずワープロに向かい、条文を打ち続けました。
 96年はじめの寒い夜のことです、このタコ部屋の外でドサッと大きな音がしました。
 そのうちに、人の声がし始めます。

 伊原さんは鬼気せまる当時の状況をこう語ります。
 「外に出てみると、人が倒れてぴくぴくと体を痙攣させていました。農水省の若手官僚の飛び降り自殺だったのです。それ以降、夜、そのプレハブから厚生省までトボトボと歩く度に、胸を締め付けられるような気分になったものです。当時の私は、とにかく法案担当チームの中から病人を出さないことが最大の気懸かりでした。よく冗談半分で、『とにかく死ぬな。ここから生きて出よう』と言っていました」

 まったく新しい法律を作るのですから、作業量は膨大でした。本邦初演の仕組みを、あれこれと導入するわけで、先例もありません。当時の伊原さんは四六時中、介護保険法のことばかり考えていたそうで、寝言でも、「第○○条は・・・・のようにしなくちゃだめだ」などとつぶやいて、詳子夫人をひどく心配させました。

■"今週の介護保険"→"今日の介護保険"■

 おまけに、外部との調整で頻繁に修正が加わります。
法案とりまとめが本格化した96年の春頃から、あまりに状況が頻繁に変わるので、介護対策本部では、"今週の介護保険"という言葉が生まれました。
 「6月に入ると日替わりの事態となり、"今日の介護保険"という不名誉な言葉すら飛び交うようになりました。今振り返っても、生涯、あれ以上、ハードに仕事をすることはないだろうというくらい働いたように思います。やっぱり若かった! 半年以上、まったく休みはなかったです。部屋の責任者だった私の最大の願いは、とにかくタコ部屋から病人を出さないことでした」と伊原さんは、いまとなっては懐かしそうに当時を振り返ります。

 外回り部隊も96年4月から6月までは殺人的スケジュールでした。
 増田雅暢さんの著書『介護保険見直しの争点』(法律文化社)から抜き書きすると、たとえば、5月下旬はこんな風です。

21日(火)社会党厚生部会(全国市長会、町村会から意見聴取)
22日(水)自民党社会部会・医療基本問題調査会合同会議
老人保健福祉審議会
23日(木)自民党政調社会部会・医療基本問題調査会合同会議
24日(金)与党福祉プロジェクト
28日(火)与党福祉プロジェクト
自民党政調地方行政部会・地方制度調査会合同部会
29日(水)社会党拡大厚生部会
30日(木)与党福祉プロジェクト
自民党政調社会部会・医療基本問題調査会合同会議
老人保健福祉審議会
31日(木)全国市長会会長/町村会長

■"勧進帳"で、恐怖の1時間■

 与党福祉プロジェクトは、毎週早朝2回、総計百回ほど開かれました。説明役は和田さん、説明資料は"山崎シリョウ"と仇名がついた山崎史郎さんが持参するという分担です。
 「会議が始まる20分前には着かなければならないので僕は松戸の自宅を5時半すぎに出る。ところが、会場に着いていくら待っても、史郎がこない。電話したら、徹夜でつくった資料を自宅に持ち帰ったとたん疲れ果てて眠っちゃったという。会議は1時間後には終わるので、どんなに急いでも間に合いません。法案の修正事項を、何の資料もなしに1時間しゃべり続けたあのときのことは忘れられません」と和田さんは恐怖を語ります。

 その山崎さんにも、忘れられない経験があります。
 介護対策本部の日常生活は、毎日ほぼ徹夜でした。内輪の会議は未明4時ごろから開いて、朝8時ころからの会議に資料を間に合わせるというのが通例でした。
 ある日、山崎さんが、当時の自治省幹部の自宅に、朝6時ごろ「抗議」の電話を入れました。
 「先方が『一体何時だと思っているんだ』と言うので、『こちらは徹夜続きですから、しかたがないでしょ。自治省は余裕があるかも知れませんが』と言ったら、先方は『何を言っているんだ。介護保険のことで、こちらも夜通し会議をして、30分前に帰宅したばかりだ』と大変な剣幕でした。当時の自治省も介護保険について毎日省内会議を開いていたようで、介護本部だけでなく、政府部内は必死だったのです」
 どんな「抗議」だったのかは、後の「物語」で。

■一味違う韓国の生みの苦しみ■

 お話変わって、この9月、和田さんが中心となった国際協同研究が、『介護保険制度の政策過程』(東洋経済新報社)という本にまとまりました。これを記念したシンポジウムが開かれ、日本については和田さん、ドイツ、ルクセンブルグについては国立保健医療科学院サービス評価室長の菅原琢磨さん、そして、来年7月実施が予定されている韓国については、柳韓(ユハン)大学教授で国際医療福祉大学客員教授の南商尭(ナム・サンヨウ)さんが政策形成過程について語りました。
 表は、南さんからいただいたものです。
 介護保険といっても、それぞれの国の既存の制度や歴史、文化によって、大きく違いっていることが再認識されました。
 たとえば、財源は、ドイツが全国一律、収入の1.7%(労使折半)で公費投入ゼロなのに対して、日本は公費と保険料の割合が半々。韓国は、保険料60%、国から20%、本人負担が20%。
 「20%の自己負担に不満は出ませんでしたか?」という質問に、「医療保険だと外来で30〜50%自己負担ですからそれに比べれば楽なのです」という答えが返ってきました。

 運営主体をどこにするかで大揉めに揉めた日本と違い、ドイツと韓国ではすんなり決まったようです。韓国では1998年に、公務員、私学教職員、それに加えて227の地域医療保険組合が一緒になって、国民医療保険管理公団が設立されました。ここに、2000年7月、139の職場医療保険組合が統合され、2001年7月から、民間サラリーマン、公務員、地域(自営業など)の公的医療保険が、「国民健康管理公団」というひとつの制度に統合。ここが受け皿となることが、すんなり決まりました。

 揉めたのは、制度の対象と名称でした。
 国会議員案は障害者も含む全国民、政府案は日本にならって高齢者に限定。これは、財源の制約から、日本とよく似た対象に落ち着きました。
 名称は、政府案は「老人スバル保険法」。
「スバル」は、面倒をみる、手足となって助けるという意味の純韓国語です。名前をこうすることによって治療行為をこの保険から排除しようというのが、政府案の思惑でした。
 一方、議員案は、「療養」という名称にこだわりました。
 結局、名称は議員の顔を立てて「老人長期療養保険法」に。ただし、中味は政府案通りにで決着しました。韓国でも、「名を捨てて実をとる」という手法がよく使われるそうです。
 立てなければならない顔が有りすぎて揉め続けた日本については次号で。

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