物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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■脱皮を求められていた研究所■

 要介護認定のシステムを育てる"ゆりかご"の働きをした国立医療・病院管理研究所。
 そのルーツは、国立病院の1室を間借りして開所した病院管理研修所に遡ります。日本を占領していた連合国最高司令部GHQ公衆衛生福祉部の指示によるもので、1949年のことでした。
 61年、病院管理研究所に改組。90年、国立医療・病院管理研究所へと改組、厚生行政のための政策研究所的な機能を果たすことを求められるようになりました。
 筒井孝子さんを全社協から引き抜いて、要介護認定の物差しづくりが始まったのは94年。国立公衆衛生院と合併する新たな改組話がもちあがったころでした。

写真

 写真は、一杯やるのが大好きな松田朗所長の部屋に顔をそろえた研究所の面々と2人の元所長。
 いまは大学教授に納まっている小山秀夫さん(静岡県立大)、長谷川敏彦さん(日本医大)、川渕孝一さん(東京医科歯科大)と多士済々です。
 「ここには写っていない外山義さん(2627話)を含め、みんな、遅くまで仕事をしていて、様々な刺激を受けました。幸せな時代でした」と筒井さんは懐かしそう。「でも、とりわけ遅くまで、パンをかじりながらがんばっていたのが筒井さん」というのが一致した証言です。

■夜6時になると現れるのは……■

 その研究所に、夕方6時になると決まって現れる人物がいました。厚生省の介護保険準備室次長、三浦公嗣さんでした。
 三浦さんが筒井さんに次から次へと難題を出す→筒井さんが徹夜する、といった3年にわたる共同作業で、要介護認定の仕組みは次第に出来上がっていきました。

 まず、前回ご紹介した323種類のケアコードをCHAIDという統計手法で分析しました。そして、高齢者の状態を示す73項目の組み合わせによって、ケアの時間を予測できることを確かめました。こうして、73の認定項目が生まれました。

 ところが困ったことが起きました。これを使って試験的に認定してみると、ときおり奇妙な結果が起こるのです。介護時間が長いと想定される人なのに、要介護度が低くでたり、逆のことが起こったりする現象です。これを克服するために編み出されたのが、高齢者の状態を図@のように7つの側面から見るものです。

 「中間評価項目」と名付けたこの項目を認定ロジックに組み入れることで、「認定結果は一気に安定しました」と三浦さんはいいます。


■コンピュータでなく、紙と鉛筆で■

 コンピュータを使った認定を「わかりにくい」という人々のために、筒井さんは図Aのような「介護の5本の樹」を考えました。


 たとえば、「直接生活介助の樹」には5本の枝があります。更衣ケアの枝、入浴ケアの枝、排泄ケアの枝、食事ケアの枝、移動ケアの枝です。
 それぞれに、介護に必要とされる時間数(要介護認定基準時間)が書かれた葉っぱがついているというものです。
 「この枝ごとに示された時間数で、その高齢者にとって必要な介護内容を想定することができるようにしました。私の研究の目的は、もともとは、現場の方々が使うことができるケアプラン作成のツールだったのです。どんな高齢者にも、どこにいても、同じように適切な介護が受けられること。これが介護の標準化です。そして、これは、介護の現場で一生懸命がんばってきてくれた、私の初めての学生達やすべての介護に関わる人々への贈り物でした」
 「これを国が要介護認定に使ったというのは、単なる偶然にすぎません」

 23話に登場した高浜市の岸本和行さんは、厚生省からコンピュータの一次判定システムが配布される前に、要介護認定を受けられる可能性があるすべての高齢者について、この図の介護の樹の枝をたどって認定時間を計算しました。
 「職員総出でしたが、いまとなっては懐かしい。体が覚えていますから、いまでも、枝をたどって計算できますよ」と岸本さんは当時を語ります。

 「これができれば、要介護認定は、"国がなんだかわからないコンピュータを使って決めるブラックボックス"ではなく、高齢者自身が納得できるものさしになると思ったのです。この葉っぱに示された時間をめやすにすれば、自分に必要な介護サービスやその量も考えることができる。このことで賢い消費者を生むことができるのではないかという期待を持ちました。国民が自らの意思でサービスを選択することができるという仕組みが、これからの新しい時代にふさわしいと思ったのでした」
 「岸本さんたちが、市民のために、鉛筆とものさしを使って、要介護認定基準時間を算出してくれたことは、とても励みになりました。コンピュータを使わなくても、やる気になれば、高齢者も、その介護者も自分で自分に必要な介護の程度がわかるようにと作ったのですから」と、筒井さんは5本の樹にこめた思いを語ります。

■四面楚歌■

 けれど、それでも納得しない人々はいました。
 たとえば、医師グループ。
 医療保険では医師の診断で治療が始められるのに、介護保険では認定の手続きが必要であり、医師の判断の重みが軽くなるという思いがあったようです。要介護認定には医師のプライドを傷つける要素があったのです。
 そこで、コンピュータによる一次判定の他に、医師の意見書をつけることにしました。認定審査会の委員長を医師会長してカオをたてる方策をとった市町村もかなりありました。

 こうすると福祉関係の人々が納まりません。
 医師の支配から抜け出ることを望んでいたからです。
 「そもそも認定するのがけしからん」という人も少なくありませんでした。
 三浦さんは、筒井さんを「あんみつ姫」(第30話)と名付けた由来をこう話します。
 「筒井さんは、現場での様々な苦闘に関係なく、奥の院に籠もって雑念の入らない提案を次々と示してくれました。きっと、彼女は世間が大嵐になっていることは知らず、ただ、『さっきから外で何か物音がするわ』と、おっとり構えていたのでしょう」

■過労死か自殺か、と恐れられた"13サティアン"■

 その三浦さんが厚生省の面接を受けたのは、「中央官庁の局長がどんな顔をしているか見てみたかったから」と、ご本人はいいます。
 「愛読書を聞かれたので『医師国家試験突破術』、好きな音楽は?というので『ベートーベンから松田聖子まで』と答えたら、面白いヤツってことになって採用されたらしい」と露悪的にいうのですが、面接した当時の医務局長、大谷藤郎さんの証言は180度違います。
 「実に純粋で優秀な青年で、厚生省にずっといてくれることを祈ったものです」

 三浦さんは、慶応義塾大学医学部時代、無医村に通いつめました。そこで、病院にこられない人がおびただしくいる現実に出会って心を痛めました。そして、このような人々を救いたいと思ったのが厚生省志望のほんとうの理由でした。
 ハーバード大学とジョンズホプキンス大学の公衆衛生大学院で学んで帰国した三浦さんに、96年暮れ、思いがけない人事が告げられました。当時の厚生省の13階にあったことから、「13サティアン」と名付けられ、恐れられていた介護保険準備室の勤務を命ぜられたのです。
 ここでは、「過労死しても、自殺だけはするな」という、物騒な合い言葉が飛び交っていました。自殺者が出ると「引き金をひいたのは誰か」という詮索が始まり、「さらに仕事が遅れる」からなのだそうです。

 厚生労働省老健局老人保健課長として療養病床の再編成の仕事を終え、この9月、文部科学省の医学教育課長に転出した三浦さんはしみじみいいました。
 「いま、一般の方が、『あのおばあちゃんは要介護3ね』といったりする時代がきて、感無量です。そういう"相場観"をつくることが、要介護認定制度のキモだったのです」

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