たばこの部屋

大阪大学人間科学部講義「福祉と医療の人間科学」シリーズ
「愛煙家と嫌煙家の人間科学」(2002.4.24)
大島 明(大阪府立成人病センター調査部)

はじめに

 EBMとはEvidence-Based Medicineの略ですから、「EBMにもとづくがん予防」というと、「based」と「もとづく」が繰り返されて少し変ですが、EBMという言葉はいまや非常によく使われているので、これをそのまま使うこととしました。「EBMの考え方にもとづくがん予防」というほどの意味です。

 Evidence-based Medicineから始まって最近ではEvidence-based Healthcare(EBH)という言葉もあり、それを題名にした本も出版されています。少し前には、臨床疫学という言葉や本が流行っていました。Medical Technology Assessmentなどという言葉も、これらの仲間かと思います。
 「根拠に基づく」医学、保健医療、あるいは技術の評価といった場合、これまでは権威ある先生の判断によっていたのだがこれはもうやめにしよう、ヒトを対象とする診断、治療、そして予防は、in vitro, in vivoなどの実験による研究に加えて、ヒトを対象としたきちんとしたデザインの調査研究の結果にもとづいておこなおう、という考えがその根っこにあると、自分なりに解釈しています。

 疫学は、「明確に規定された人間集団の中で出現する健康関連の色々な事象の頻度と分布およびそれらに影響を与える要因を明らかにして、健康関連の諸問題に対する有効な対策樹立に役立てるための科学」と定義されています(日本疫学会編:疫学、南江堂、東京、1996)が、この疫学の手法を臨床に持ち込んだのが臨床疫学であり、EBMです。

 予防分野においては、米国のPreventive Services Task Forceが1989年に”Guide to Clinical Preventive Services”と題するレポートを出し、1996年に第2版を出しています。がん予防の分野では、米国国立がん研究所のCancer Netというホームページ(http://cancernet.nci.nih.gov/index.html)のPDQ (Physician Data Query)というページに、がん予防とがん検診に関しても、最新のデータとこれに基づく証拠のレベルの判定結果が示されています。
 表1に、PDQにおける証拠のレベルを示しました。偏りが入り込むことをできるだけ少なくしたRandomized Controlled Trialによる証拠が最もレベルが高く、「偉い」先生の意見は最もレベルが低いとされています。

 疫学の手法を臨床や予防に持ち込み、きちんとした証拠に基づき診断、治療、予防をおこなおうとするEBMやEBHの考え方の始まりは、Cochrane CollaborationやCochrane Libraryで有名なA. L. Cochraneが1971年に著した名著 “Effectiveness and Efficiency”であると思います。この本は、結核研究所所長の森 亨先生が、ずっと昔に訳されていたのですが、1999年になってようやく「効果と効率」という題にさらに「保健と医療の疫学」という副題をつけてサイエンティスト社から出版されました(ISBN4-914903-61-x)。
 EBMというと、インターネットで証拠を検索することだと矮小化されて理解されている向きもあるかと思いますが、そうではないことがこの本を読むとよくわかります。ぜひ、ご一読されるようお奨めします。

 Cochraneのこの本は、英国のNational Health Servicesを題材にして議論を進め、火葬場と対比して「あんなに多くを注ぎ込んで…」などと述べるなど非常に皮肉のきつい、毒もある本です。
 私の印象に残る表現は、「有効という証拠がない限り、それは常に無効だと思っておくべきなのである」(第2章)、「非効率の最重要の型はとりもなおさず、有効性のない治療法の使用と有効性のある治療法の不正な使用の組み合わせである」(第5章)、「スクリーニングをする人は、『福音主義的情熱家』である」、「たいていの場合、なんでもかんでも異常を見つけることには価値のあることだとの前提に立つものである」(第5章)(いずれも、森先生の訳による)です。

 これらの指摘は、現在の日本の保健医療、特に本日の講演の主題であるがん予防対策に当てはまると、考えます。私の考えでは、疫学的な視点がわが国のがん予防対策に生かされなかったために、2つの大きな社会的損失がもたらされつつあります。
 そのひとつは、がん検診有効性評価の調査結果が対策の変更に生かされなかったための損失であり、もうひとつは、たばこ対策の立ち遅れによる損失です。この2つについて述べる前に、わが国がん対策の評価についてのデータをお示しします。

わが国のがん対策の評価

 最近、米国からは、1990年代に入って、がん罹患率・がん死亡率(1970年の米国人口を標準として年齢調整)が減少し始めたという報告が相次いでなされました。これに対して、わが国のがん罹患率・死亡率の推移はどのようになっているでしょうか。図1に男女合計、男、女のがん死亡率とがん罹患率(1985年の日本人人口を標準として年齢調整)の推移を示しました。男女合計でみると、がん罹患率は増加しており、がん死亡率はほぼ不変です。全体として、米国のように、がん罹患率・死亡率が減少しているとは言えず、がん対策は成果をあげているとはいえません。
 あとで述べますが、胃がんは、概ね、食生活の変化に伴なっていわば自然に減ったのであり、その減少の大部分は対策の成果とみることは出来ませんので、全部位から胃を除いたがんの死亡率の推移をみると、明らかに増加しています。すなわち、わが国のがん対策は成果をあげているどころか、失敗しているのであって、米国と違い、日本ではがんに対する戦争には敗れつつあるといわなければなりません。

 なお、全国のがん死亡率の推移は厚生省統計情報部の人口動態統計から得ることが出来ますが、全国のがん罹患率の推移に関するデータは、国としては示しておりません。厚生省がん研究助成金による「地域がん登録」研究班が、精度の高い府県市のがん登録室による協同研究として、1975年以降のがん罹患率を推定して発表しているに過ぎないのです(JJCOに定期的に発表、大阪府立成人病センタ調査部のホームページからもデータを入手することが可能http://www.mc.pref.osaka.jp/ocr/research.html)です。
 米国では、1971年National Cancer Actを制定して、がんに対する戦争を開始したとき、がん対策の評価の指標を得るべく、ほぼ同時にSEERプログラム (Surveillance, Epidemiology, and End Results Program)を開始して、いくつかの州・地区を選びがん罹患率とがん患者の生存率を計測する体制を整備しました。SEER プログラムの毎年の調査結果は、http://seer.cancer.gov/から見ることができます。さらに、現在では、1992年に制定されたCancer Registries Amendment ActのもとでNational Program of Cancer Registriesが実施され、49の登録室(47州と2地区)に対して連邦政府からの支援がおこなわれています(http://www.cdc.gov/cancer/npcr/index.htm)。

 これに対して、 わが国では地域がん登録はあくまで府県市の事業にとどまっており、がん登録の法的整備はなされておらず、国の関与はきわめて少ないままでとどまっています。1998年度以降は、それまで保健事業としておこなわれていたがん検診の精度管理事業の一環としてのがん登録へのわずかな補助金も一般財源化されてしまいました。対策の評価の重要性に関する日米政府の態度の違いがここにも現われていると思います。

がん検診の有効性評価と対策の変更を――「がん予防の決め手は早期発見」という幻想

 わが国のがん予防対策が開始された1960年代は、胃がんと子宮頸がんががん死亡の約半数を占めており、これらのがんに対しては、早期診断の技術がすでにほぼ確立していました。そして、検診サービスの導入と時期をほぼ同じくして、胃がんと子宮がんの年齢調整死亡率は減少し始めました。このため、「がん予防の決め手は早期発見・早期治療」との考えが一般の人々だけでなく、保健医療の現場の人たちや公衆衛生の政策立案に携わる人たちに定着することとなりました。しかし、実際には、1970年代までの胃がん死亡率減少の大きな要因は食生活の変化などに伴う胃がん罹患率の減少であったことは地域がん登録のデータから明らかです。

 1987年スウェーデンのエーテボリでUICCがん検診に関する国際ワークショップが開かれ、私が日本から参加しましたが、その際の胃がん検診に関する評価は表2のとおりです。私はこの評価に納得しています。
 ところが、政策決定のレベルでは、胃がん検診と子宮頚がん検診の「成功」による「がん予防の決め手は検診」との思い込みはその後も揺るぐことはなく、どのようながんに対しても検診で対処しようとする態度は、なかなか変わりませんでした。
 私の学生時代、東大物療内科の高橋晄正先生が、「使った、治った、効いた」というのを「3た論法」というと皮肉をおっしゃっていたのを思い出しますが、この「3た論法」が政策決定のレベルでは依然として通用していたといえます。

over diagnosis /over treatmentの害の軽視

 検診で発見されるがんは早期のものが多く、検診発見がん患者の生存率は、症状を訴えて受診した外来診断患者よりも高くなります。しかし、それはがん検診ががん死亡減少の効果をもつことの証拠とはなりません。Lead-time bias, length bias, selection biasなどの多くの偏りのために、検診発見がん患者の生存率は見かけ上高くなるからです。しかも、lead-time biasの極端な形のover diagnosis biasが、想像だけでなく実際に存在することがはっきりしてきました。

 たとえば、米国では、PSAによる前立腺がん検診の普及に伴なって米国では前立腺がんの罹患率が急増し、その後、この検診の有効性に対する疑問が広がりブームが去ると罹患率は減少したが、前立腺がんの死亡率には大きな変化がなかったというSEERのデータや、日本では、6か月児に対して尿の検査による神経芽細胞腫のマススクリーニングの導入とともに罹患率は増加したが、死亡率は大きくは減少せず、死亡率の減少の大部分は治療の進歩で説明できるという大阪府がん登録のデータは、over diagnosisの存在を示すものです。

 すなわち、臨床期のがんに進まずがん死には結びつかないがんを検診により発見し、これを治療するという過剰診断、過剰治療の害の存在があることがはっきりしてきました。このover diagnosis biasは、近藤 誠さんが「がんもどき」といったものにあたります。これまで、「『がんもどき』はおでんの中にしかない」などといってover diagnosisを軽視する方が多かったのですが、残念ながら、「がんもどき」はおでんの中だけでなく、現実に存在していることがはっきりしてきたのです。

がん検診の有効性評価報告書に対する旧厚生省・厚生労働省の態度

 今日では、がん検診は多くの医療資源を必要とする上、検診受診者に利益だけでなく不利益をもたらしうること,また、がん検診が当該のがんの死亡減少効果を持たない場合もあり得ることが明らかになっています。
 1992年からの一連の著作で近藤誠さんが、「がん検診、百害あって一利なし」との重大な問題提起をしたとき、がん検診推進側からは、情緒的な反論ばかりを繰り返し、まともな議論をしようとはしませんでしたので、しかたなく、1995年から私も議論に加わり、「がんの自然史に関する単純な生物学的モデルから、『早期発見はがん死亡減少にそのままつながる』としたり、あるいは逆に『すべての検診発見がんは[がんもどき]である』とするのはどちらも間違っている。ひとつ一つのがん検診について、当該のがん死亡減少の効果があるかどうかをきちんとした証拠に基づいて判定する必要がある」と主張しました。
 このことは決して私の独創ではなく、1983年のUICCがん検診に関する国際ワークショップでのがん検診の適用に関する原則の受け売りでしかありません(表3)。しかし、マスメデイアは、2人の議論を面白おかしく取り上げるだけで、折角の議論が、がん検診の有効性評価の必要性やがん検診の利益とについての認識を国民の間に広げ、深めることにつながらなかったのは、今でも残念に思っています。

 しかし、ようやく、1997年度には、厚生省もがん検診の有効性の必要性を認識するところとなり、厚生省老人保健推進費等補助金による「がん検診の有効性評価に関する研究班」(主任研究者:久道 茂東北大学医学部長)が組織され、1998年3月に報告書をまとめました。ところが、1998年4月に、この報告書を「がん検診の有効性等に関する情報提供のための手引き」として自治体や医師会に配布するにあたって、厚生省老人保健課は文書を付し、「本報告書について「本研究班が議論しているような、科学の世界で『効果について完全な証明が得られているか否か』という状況と、行政施策を実施する際に求められる有効性を裏付けるデータのレベルは自ずから異なるものである。そのため、有効性について証明が十分にできているもの(胃がん、子宮頚がん、大腸がんに対する検診)はもとより、検診受診に係る生存率や地域の死亡率等のデータから効果が示唆されるもの(子宮体がん、肺がん、乳がんに対する検診)についても、住民一人ひとりの健康を確保する観点から、受診を希望する住民に広くその機会を提供することが、自治体に求められている」としました。

 この文書は、証拠に基づく保健医療(Evidence-based Healthcare)を否定するもので、行政の無謬説に基づく極めて無責任なものといわなければなりません。しかし、この文書によって、殆どすべての自治体で、従前どおりにすべてのがん検診が継続して実施されることとなり、がん検診事業見直しの絶好の機会を失してしまったのは、近藤 誠さんとの議論のマスメデイアの受け止め方以上に、残念なことであったと思っています。

 今年9月横浜で開かれた日本癌学会シンポジウムでの久道 茂先生のご講演によると、2000年度に久道先生を主任研究者とする新たな研究班が組織され、その報告書「新たな癌検診手法の有効性の評価」が近く公表されるとのことです。この報告書に示されている個々のがん検診の有効性に関する証拠を厚生労働省老人保健課がどのように政策変更に結びつけるのか、また、これに対してがん検診に関わる研究者がどのように対応するのか、重大な関心を持って見守りたいと思っています。

organized screeningの必要性

 これまでがん検診の有効性評価の重要性について話してまいりましたが、理想的な条件下における有効性、すなわち効能(efficacy)が認められ施策に取り入れたがん検診であっても、きちんとした受診勧奨システムによる高い受診率ときちんとした精度管理の体制のもとで行わなければ、効果(effectiveness)はあがらないし、効率(efficiency)が下がることとなります。このことを、大腸がん検診を例としてお話します。

 便潜血検査による大腸がん検診に関しては、すでに効能は確立しています。しかし、大腸がん検診が効果、効率をあげるためには、検診受診率、要精検率と精検受診率が重要な要素です。少し旧いですが、1998年度の厚生省老人事業報告によると、全国での大腸がん検診受診率は14.8%で、府県別に見ると6.5%から36.5%(13大都市では1.1%から12.6%)の範囲にばらついていました。1997年厚生省健康・福祉関連サービス需要実態調査によると、市町村による検診だけでなく職場での検診や個人的に受診した検診を含めて過去1年間の40-69歳における大腸がん検診の受診率は9.6%でした。同じ調査で、胃がん検診と子宮がん検診の受診率は、各12.1%、17.5%であったのに比べると、大腸がん検診の受診率は相対的に低いレベルにとどまっています。

 米国の1997年の調査によると、50歳以上の対象のうち19.8%が過去1年間に便潜血検査による検診を受診し、30.5%が過去5年間にS状結腸鏡あるいは直腸鏡による検診を受診していました。わが国における大腸がん検診受診率はかなり低いレベルにとどまっており、このままでは大腸がん検診により大腸がん死亡の減少を期待することは困難であると考えます。なお、米国のHealthy People 2000では、大腸がん検診の受診率を便潜血検査によるもの50%以上、S状結腸鏡あるいは直腸鏡によるもの40%以上という目標をかかげていました。

 また、1998年度老人保健事業報告によると、要精検率は全国で7.0%、府県別には最低3.1%、最高11.4%(13大都市では2.3%から16.2%)でした。免疫学的便潜血検査という同じ検査法を用いているので、検診の精度はほぼ同一であり、偽陰性率を低くとどめるべく要精検率を高くすると、偽陽性率が高くなり、効率は悪くなります。
 集団検診機関を対象として調査している日本消化器集団検診学会の全国調査での要精検率は6.8%、日本対ガン協会の調査では6.5%でした。さらに、日本対ガン協会による大腸がん検診の要精検率を支部別に見ると、最低は2.6%、最高は15.0%で、早くから大腸がん検診を手がけてきた青森県総合検診センターや宮城県対ガン協会検診センターによる大腸がん検診成績では要精検率は各2.6%,4.0%でした。大阪がん予防検診センターの成績でも要精検率は2.7%でした。以上から、多くの大腸がん検診において、偽陰性を恐れるあまり要精検率を高く設定しすぎているといえます。

 同じく1998年度の老人保健事業報告によると、大腸がん検診の精検受診率は58.5%で、胃がん検診(77.1%)、子宮頚がん検診(72.3%)に比べて著しく低くとどまっていました。大阪府の調査によりますと、大阪府全体での精検受診率は52.6%にとどまっており、胃がん検診(79.1%)、子宮頚がん検診(64.5%)に比べて著しく低かったのが特徴です。大阪府の成績をさらに集団検診方式と個別検診方式とに分けてみると、前者での精検受診率は69.0%であったのに対し、後者では46.2%にとどまっていました。50%前後の精検受診率というのは発見できるはずの大腸がんの半分をみすみす落としていることになります。このような杜撰な検診では、効果はあがらず、効率は低いものとならざるを得ません。

 大腸がん検診に限らず、効能が認められ施策に取り入れたがん検診であるといっても、ただ漫然と希望者に保健サービスとして提供するだけでは効果はあがらず、効率は悪くなります。西欧先進国ではorganized screeningの体制の必要性が指摘されています。Organized screeningでは、対象とする人口集団が同定されていること、対象集団の中の個人が同定できること、受診勧奨の手紙を出すなど高い受診率を保証する手段を利用できること、スクリーニング検査の精度管理の体制があること、精密検査と発見がんの治療の体制が整備されていることなどが要件とされています。

 わが国の老人保健事業によるがん検診は、organized screeningの要件を満たしておらず、受診者が固定化する一方、検診を受けないものはずっと受けないままで終わるという、きわめて問題の多い体制のもとで、しかも大腸がん検診の場合は精検や手術結果の受診勧奨や結果把握も不十分な体制のもとで、おこなわれてきました。1998年度以降はがん検診が老人事業からはずれ市町村の独自事業となりましたので、厚生省が示す要綱や指針に縛られることなく、organized screeningへ向けて独自の工夫をおこなうべきだと考えます。

たばこ対策推進の重要性と医師をはじめとする保健医療従事者の役割

 先に、わが国のがん罹患率・死亡率は米国と異なり、減少しておらず、がん対策は成果をあげていないと申しました。日米の違いの大きな要因は、たばこ対策の取り組みの違いによる肺がん罹患率・死亡率の動向の差にあります。米国では、1990年代に入って米国ではがん罹患率・死亡率が減少しつつありますが、これは1960年代からの米国における種々のたばこ対策による国民のたばこ離れが、1990年代に入っての肺がん罹患・死亡率の減少となって現われてきたことによるところが大きいのです。これに対して、わが国では、たばこ対策の取り組みの立ち遅れにより、成人男性の喫煙率は50%強にとどまっており、肺がん罹患・死亡率は今なお増加しつつあります。
 図2に、英国、米国、スウェーデンと日本の4カ国における男の肺がん死亡率の推移を示しました。日本の肺がん死亡率だけが増加していること、これに対して早くからたばこ対策に取り組んだスウェーデンでは肺がん死亡率が低いレベルにとどまっていることがわかります。

 わが国では、1978年から開始された第1次国民の健康づくり対策、1988年から開始された第2次国民健康づくり対策においては、栄養、運動、休養が健康づくりの3要素としてとりあげられたにすぎず、1998年に開始された第3次国民健康づくり対策である「健康日本21(21世紀の国民健康づくり運動)」のなかに、たばこが9つの分野のひとつとして、初めてとりあげられました。この背景には、1998年には肺がん死亡数が胃がん死亡数を追い越し肺がんががん死亡のトップの座を占めるようになるのは確実との予測(その後実際、1998年に肺がん死亡数は胃がん死亡数を追い抜いた。その後胃がん死亡数は減少に転じたのに対して肺がん死亡数はさらに増加を続けている)や、たばこ規制枠組み条約を2003年には世界保健総会で採択しようとのWHOの動き(WHOのTobacco Free Initiativeのホームページ参照: http://www.who.int/tobacco/en/)がありました。

 しかし、健康日本21策定検討会たばこ分科会がまとめた「成人喫煙率半減」目標は、2000年2月の健康日本21企画検討会で、たばこ業界などの反対決議を受けて、「成人喫煙率半減目標に固執すると、健康日本21全体が認められなくおそれがある」、「反発されるものを入れるのは得策でない」、「実を挙げることが大事だ」などの議論がなされ、24対8の大差で削除されてしまいました。このことは、大きくメディアなどに取り上げられ、保健医療関係者だけでなく、国民の間でも広く論議を呼ぶところとなりました。現在、府県、保健所、市町村レベルにおいて健康日本21の地方計画が作成されつつありますが、たばこ分野の目標設定をめぐってはなお混乱が続いています。

 「成人喫煙率半減」という数値目標の設定は、たばこが予防しうる単一で最大の疾病・早死の原因であるとの認識のもとにたばこ問題に正面から取り組むという政府の強い決意を示すものであったはずです。現時点のわが国の政府には、残念ながら、この決意がまだないといわざるをえません。

 たばこによる死亡や健康障害を減少させるという最終目標を達成するには、わが国においても欧米先進国並の喫煙率や法的規制や環境整備を含むたばこ対策を早急に実現するべきであるとして努力目標を設定することの重要性はいうまでもありません。しかし、同時に、わが国の現状にあわせた近未来の目標設定とその目標達成のための具体的な手順についての検討を併せて行うことも同様に重要と考えます。現時点のわが国においても実施可能なたばこ対策の取り組みを整理して示し、これをきちんと実行して、成人男性の喫煙率をできるだけ早く50%割れに追い込むとともに、たばこの社会的認容度を低くしたばこは吸わないのが当たり前という社会規範を作ることによってこそ、欧米先進諸国と同様にたばこ対策のための法的規制や環境整備も可能となります。
 従って、たばこ対策の近未来目標は、できるだけ早い時期に(遅くとも2003年までに)成人男性の喫煙率を50%割れに追い込むこと、たばこは吸わないのが当たり前という社会規範を形成すること、そして政府にたばこ対策に正面から取り組むとの強い決意を固めさせることにおくべきだと考えます。そして、この近未来目標を実現するため直ちに実行するべきとりくみを表4に示しました。

 この近未来目標を達成するうえで、保健医療者・組織の果たすべき役割は極めて大きいものがあります。まず保健医療者・組織の果たすべき第1の役割として、たばこ離れの率先垂範があげられます。最近発表された日本医師会員喫煙実態調査結果によると、喫煙率は、男性27.1%、女性6.8%で、一般人口(男性52.8%、女性13.4%、1998年度喫煙と健康問題に関する実態調査)に比べて、約2分の1でした。しかし、欧米先進国における医師の喫煙率に比べると、はるかに高く、ロールモデルとしての役割の自覚がまだ不足しているといわなければなりません。

 第2の役割は、医療や検診の場などで接するすべての喫煙者に対して、禁煙するよう強く忠告し、禁煙を希望するものに対して禁煙サポートの手を差し伸べることです。
 第3の役割は、たばこ対策のオピニオンリーダーとして、医学会や医師会など保健医療従事者の組織・団体が、政府などに積極的なたばこ対策をとるよう、働きかけることです。特に、環境整備を推進するためには、喫煙の健康問題に直接関わり、健康問題の解決にむけて社会的な役割を期待されている保健医療の団体や組織が積極的に社会に働きかけを行うことが当面実施可能な取り組みと考えます。すでに、日本呼吸器学会、日本がん疫学研究会、日本小児科学会、日本公衆衛生学会、日本肺癌学会の5つが喫煙対策の提言などを行っています。これに続いて、日本癌学会や日本循環器学会、日本消化器学会などのような大きな学会や日本医学会が、同様の提言・勧告を行うよう、関係者は働きかけていくべきだと考えます。

 日本医師会では、坪井栄孝会長が、ハーバード公衆衛生大学院院長との2000年新春対談のなかで、「日医が、たばこの害を何とか防ごうという活動に対して、組織としての関心が低かったという点では反省しております。今年からそれをアッピールしていこうと考えています。それで、今、お聞きしたような、科学的な根拠をしっかり出して国民を説得していくということも大事ですが、私には政府を説得していかなければいけないという大きな仕事があります。」と積極的な発言をされ、2001年には日本医師会内に禁煙推進プロジェクト委員会を立ち上げ、各種取り組みを進めています。

 また、日本医師会では、日本医師会員喫煙実態調査に引き続き、具体的にたばこ対策に取り組む第2段として、David Simpson著 “Doctors and Tobacco”の翻訳・出版の作業を進めています。このモノグラフは、英国医師会の中にあるTobacco Control Resource Centre (TCRC)から出版されたもので、たばこ対策の取り組みが遅れている東欧諸国などの医師会に向けてたばこ対策推進における医師と医師会の役割を示しており、その内容は日本の医師会にもそっくりそのまま適用できるものです(“Doctors and Tobacco”は、TCRCのホームページからダウンロードできる: http://www.tobacco-control.org/)。この翻訳・出版によって、わが国の日本医師会、府県医師会、地区医師会の各レベルで、たばこ対策の取り組み推進に向けて大きな弾みがつくものと期待しています。
 以上、わが国のわが国のがん予防対策は、きちんとした証拠に基づき、大胆な見直しが必要であることをEBMにもとづくがん予防の立場から示しました。

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