医療事故から学ぶ部屋

※写真にマウスポインタをのせると説明が表示されます


(14)「危機を、患者のせいにするのは、矛先が間違っているのではないか」
ジャーナリスト・辰濃哲郎さん/「医薬経済」08年5月15日号より

 万雷の拍手のなか、私は居心地の悪さを感じていた。
 4月12日夕方、東京都中央区の日比谷公会堂で開かれた、超党派議員が主宰する「真の公聴会! 医療現場の生の声を直接国会議論へ!」と題するシンポジウムを聞いていたときのことだ。

 医療崩壊について考える提言者は、9人。このうち7人が、医療現場で働く関係者だ。
 都立病院で産婦人科部長を務める女性医師が、「なぜ産婦人科医は、辞めていくのか」と静かに語り始めた。
 昨年、福島県立大野病院の医師が、前置胎盤の患者を出血多量で死亡させた事例で逮捕されたことに話が及ぶ。
「もし、裁判で医療側が負けた場合、抗議の意味も含めて、うちの病院での分娩取り扱いをやめるか、安全な分娩ができるであろう時期まで、分娩を制限せざるを得ないだろうと考えています」
 その言葉が終わるや否や、数千人が詰め掛けた場内から、割れるような拍手が沸き起こった。8割以上が医療従事者だ。しかも、その拍手が、なかなか鳴り止まない。

「(逮捕という)非人間的な扱いには怒りを禁じえません。(医療事故は)態勢やヒューマンエラーによるものが多いわけで、故意や犯罪とは一線を画すべきです」
 予定の持ち時間を大幅にオーバーしたものの、それを感じさせない勢いがあった。

 だが、私はその拍手の渦の中で、違和感を覚えていた。いや、恐怖に似た、背筋がゾッと寒くなるような、得体の知れない感覚だった。
 その前に発言した、全国医師連盟設立準備委員会の代表世話人を務める黒川衛医師の発言のときも、そうだった。

「患者を助ける医師を助けてください。このまま医療費抑制が続き、診療環境が改善されないのなら、必ず医療は崩壊します。もうすでに起きています。今の医療制度は医療制度偽装だと思っています。医師配置基準は無視されています。医師の労働基準法違反は、放置されています。医師の時間外賃金は、その大半が支払われていません(中略)診療の結果が悪ければ、逮捕という異常な事態が生じています。現場の医師の志気を奪う事態が相次いでいるのです」
 そしてふたつの問題提起をした。
 @医師に限らず、救命活動をしている人への刑事免責の確立。
 A損害賠償に代えて無過失保障制度あるいは、患者家族救済制度の設立。
 ここでも、地響きのような拍手が沸いた。

 もし私が、医療過誤で肉親を奪われた家族だったら、この拍手を、どのように受け止めていただろう。そう思うと、怒りにも似た気持ちが湧き上がってきていることに気がついた。
 日本の医療は、長い間、医師や看護師の献身的な努力に支えられていた。人口千人あたりの医師数は、OECDヘルスデータ(2004年版)によると、2・0人で、26位だ。トルコ、韓国、メキシコに次いで少ない医師数になっている。最も多いギリシャの4・9人の半分以下だ。
 その不足を補うように、日本の医師、とくに勤務医が不眠不休で診療に当たっていたのだと思う。泊まり明けのまま通常業務につき、夜遅くまで連続36時間の勤務を続ける。1週間の時間外労働が、70時間とも80時間とも言われる。看護師、薬剤師、放射線技師、臨床検査技師。数ある医療職のなかで、ローテーションを組んだ交替制勤務がないのは、医師だけかもしれない。

 ところが、こういった医師不足が取りざたされるようになったのは、ここ数年のことだ。ずっと以前から医師不足のはずだし、給与だって、それほど安くなったとは思えない。なのに、なぜ、いま医師不足と高らかに叫ばれるようになったのだろう。
 このシンポジウムを聞いて、なぞが氷解した。キーワードは「訴訟」だ。

 私は、医療問題を取材する立場になって、かれこれ17年になる。科学部の記者ではないから専門的な医学知識があるわけではない。社会部記者としての視点だから、どうしても患者側に寄り添うことになる。
 私がまだ厚生省(当時)を担当していた当時、医療過誤や事故はあるには、あったが、マスコミに取り上げられることは、むしろ少なかった。その医療事故が、大きくクローズアップされるようになったきっかけは、99年、横浜市立大学病院で起きた患者取り違え事件だったような気がする。
 心臓弁の手術をする患者と肺の手術をする患者が、手術室に搬送される途中で入れ替わってしまい、それぞれ別の手術をしてしまった、という医療ミスだ。幸いにも命に別状はなかったが、とんでもない惨事につながる可能性があった。この事故で、教授や看護師ら17人が書類送検された。

 これ以前にも、医療ミスがなかったわけではないが、あっても、なかなか公にならなかったのだ。その原因は、医療の密室性、専門性、そして隠蔽体質にあったと、私は考える。
 日本で医療に不信感を持ったとき、患者や家族は、長らく対抗する術を知らなかった。医療ミスや過誤を証明するには、それなりの専門知識が必要だ。弁護士を頼もうにも、専門の弁護士が余りに少なかった。診療や手術でなにが起こったかを知ろうにも、病院関係者が口を閉ざしたら、密室でのことなので、資料さえない。カルテや手術記録を入手しようにも、日本では長らく、診療録は開示されなかった。そのうえに隠蔽である。カルテが病院の都合のよいように書き換えられた事例は、いくつもある。これでは、とても太刀打ちできない。
 その密室性、専門性、隠蔽体質を乗り越えるために、患者やその家族が、どれだけの苦難を味わったことだろう。一般の常識では考えられないような理屈で、正当性を主張する病院を前に、多くの家族が訴訟さえ諦め、泣き寝入りを余儀なくされた。訴訟とは、患者側に残された最後の手段だったのだ。

 この横浜市大病院の患者取り違え事件を機に、それまでマグマのようにたまっていた医療不信が、いっせいに噴出すように表面化し始める。メディアが、医療ミスをこぞって取り上げるようになったのも、この事件以降だ。
 訴訟の数は年々、増え続けた。最高裁のホームページを見ると、医療関係訴訟事件の数を知ることができる。97年には597件の受理件数があったが、04年には1100件にまで倍増している。その後900件台に減ったが、大幅に減る気配はない。
 その一方、原告である患者側の主張が、一部でも認められた「勝訴率」は、30〜40%台を推移している。証拠調べが実施された通常の民事訴訟が、80%以上の勝訴率を維持しているのと比べて、半分以下だ。

 だが、一方で、こういった訴訟を起こすことで、患者が勝ち取ったものもある。
 インフォームド・コンセント(I・C)の充実。セカンドオピニオンの普及。カルテの開示。変死の警察への届出。これらは、患者や家族が、医療の隠蔽体質や閉鎖性、専門性を乗り越えて、やっと手に入れた、いわば「ご褒美」なのだと思う。
 だが、シンポジウムでは、この「ご褒美」が、槍玉に上がった。
 かつて、医療崩壊などという言葉さえなかったころ、医師不足という問題を感じさせないほど、医師たちは懸命に働いてきた。だが、訴訟や医師の逮捕が頻発すると同時に、その志気が低下し、医療崩壊につながった。
 こういった主張が、万雷の拍手ななかで支持されるのを目の当たりにして、危うさを感じたのは私だけだろうか。医療界が自らが招いたこの危機を、患者のせいにするのは、矛先が間違っている気がしてならない。

 私はいま、実感として医療崩壊を感じている。シンポジウムを聞いて、その感をより強くした。日本の医療を立て直すにためには、相当な財源が必要だと思う。国が医療費抑制の大号令をかけて、どんどん財源が削られていくなか、これを阻止できるとすれば、国民と医療従事者が手を携え、立ち上がったときだ。私たち国民だって、医療費抑制策には反対だ。だが、その国民の医療不信を取り除かない限り、国を動かす国民運動にはなりえないような気がする。
 医療関連死法案が、佳境に入っている。私自身、医師がむやみに逮捕されることへの抵抗はある。かといって、医療従事者に刑事免責を与えるということについては、反対だ。医師が故意で患者を死なせるなどということは、あるわけがない、と信じている。だが、一方で、本当に医療界の隠蔽体質は改善されるのだろうかという不信感は、まだ根強くある。
 シンポジウムの提言者の一人として参加していた日本医師会の代表が、I・Cの問題に触れた。
「I・Cが極端になって、逆に患者の医療に対する過大な要求や主張が強くなり、現場の医師は説明や書類作成に追われる状況になっている。」
 I・Cが、医療崩壊の一要因であるとの主張だ。こういった主張をする医療界に、刑事免責を与えてしまったら、いったいどうなるのか。

 これには、医療関係者も黙ってはいなかった。
 山形大学医学部の嘉山孝正・医学部長が苦言を呈した。
「医者と患者が話しているうちに信頼関係というものができてくる。誠意をもって話すと、真剣にやってくれているんだな、とわかる。ヒポクラテスの時代から、ずっとパターナリズム、つまり、任せておけばいいんだ、というようなことをやってきてしまった。その辺で患者さんに不信感を抱かせてしまった我々にも問題がある」

 国立がんセンター中央病院の土屋了介・病院長も続いた。
「自ら身を正すという姿勢で自浄作用を発揮していかないと信頼回復はできない。医療関係者だけでやっているのではない。医療は社会の中でやっているわけだから、そういう枠の中で医療をどうやっていくのかを考えるのが今日の会の目的のはずだ」
 患者の「ご褒美」が、少し報われたような気がした。

▲上に戻る▲

医療事故に学ぶ部屋の目次に戻る

トップページに戻る