シンポジウムの部屋

シンポジウム「病んでも輝いて生きるには〜垣根を越えて」
----1995.1.23平成患者学
 「病んでも美しく、輝いて生きるために」をテーマに、1995年1月23日、東京・有楽町の朝日ホールで、平成患者学シンポジウム(朝日新聞社主催)が開かれました。
 輝いている代表には、社会保障制度審議会会長の隅谷三喜男さんと、頚髄損傷者連絡会・岐阜会長の上村数洋さん、輝きを支える側には、ライフケアシステム代表の佐藤智さん、健和会訪問看護ステーション統括所長の宮崎和加子さん、日本医科大学助教授の高柳和江さんが、登壇。ご体験をもとに、患者が、医師が、そして社会が何をなすべきかを話し合ってくださいました。以下は抜粋です。司会は当時朝日新聞論説委員室にいた「ゆき」がつとめました。詳細は『メディカル朝日』1995年4月号に掲載されています。

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<基調報告>

●「介護保険」の制定を 隅谷三喜男さん
隅谷三喜男さん

 1987年1月に妻から、がんだと告知されました。医師は、私には絶対に告げるなと言ったのですが、夫婦の間では、がんになったら、お互いに話そうと約束していたからです。

 計3回の手術と25回の放射線照射を受けました。この年の秋、仕事を整理し、やり残したことを実行するため、友人、知人には知ってもらう方が良いと思い、病状を書いて送りました。がんを公表すると、仕事を断るのがとても楽なんです(笑い)。人生が充実いたします。
 その時、私は「第1次5カ年」と書いて、残りの人生を設計しました。今の長寿化社会では死を忘れがちですが、5年先までの人生を美しく生きたいと設計したことが、自分にとって良かったと思います。
 幸い92年には5年目を迎え、次は第2次3カ年としました(笑い)。今はそれも終わりに近づいたので、この秋まで生きたならば、第3次2カ年の計画を立てるつもりです。

 これまで日本の社会保障制度は最低保障に重点が置かれていましたが、国民生活を広く保障する体制に構築し直す必要があります。その視点で21世紀を展望すると、特徴として高齢化、核家族化、女性の就業増加、費用の増大があります。
 そういう中で新しい社会保障の担い手はだれかを考えると、政府、自治体、個人、そして何より社会的な連帯を築かないといけません。その一つとして、私たちは老人に対する公的な介護保険の制定を提唱しています。

すみや・みきおさん 労働問題、工業経済が専門。東大教授、東京女子大学長などを歴任。成田空港問題で円卓会議座長も務めた。著書に『労働経済論』(筑摩書房)など。
物語介護保険29話『隅谷三喜男さんのファンファーレ』
●家族と技術が支えに 上村数洋さん

 14年前の初雪の日に、自分の車の運転ミスで6メートル下の谷底に落ちていきました。よく死ぬ間際にいろいろなことが浮かぶといいますが、本当にいろんなことが浮かんできました。私が死ぬと決め込んで、見舞いの人たちが話しているのが聞こえ、「死ぬもんか」と思いました(笑い)。後で聞くと、その時、瞳孔は開いていたそうです。

 命は助かったものの、首から下が動かないので、蚊も追えず、子どもも抱けないので悔しかったです。「自分だけ社会から取り残されるのか」といった不安に毎日悩んでいました。
 それが今、まがりなりにも皆さんの前に出られるようになったのは、家族の愛があったからです。妻は私ができることは何でもやらせようと、いろいろな機器を備えてくれました。
 次が娘の存在です。娘の前で「ぶざまでもいいから、何とか生きる姿を見せたい」ということで、頑張れたと思います。

 それに、支援技術です。息を吸ったり吐いたりして、身の回りの電化製品やベッドを動かせる制御装置をリハビリテーション・エンジニアが開発してくれました。
 最近は、失った機能を補助する支援技術がどんどんできてきて、私たち障害者は可能性が広がりました。
 身の回りのことができるようになることは、生きる自信につながります。社会に出ると、たくさんの方と出会います。そこから情報や知識が得られ、自信になってもっと出て行こうという気持ちになるのです。

上村数洋さん
 うえむら・かずひろさん 交通事故で体が不自由になったあと、口の動きで本がめくれる装置などを発明した。著書に『明日を創る』(三輪書店)。
●「自宅で最期」が理想 佐藤智さん

 私たちのライフケアシステムは、病んでも美しく輝いて生き、死んでいくための草の根組織です。自分の健康は自分たちで守り、病気は家庭で治すことをモットーに、1980年に40数人で作りました。一世帯月7000円の会費を出し合い、私ども医師や事務局を雇います。今では300世帯、900人に増えました。

 この14年間に亡くなった222人の半数は、自宅で最期を迎えました。がん患者も、60%が家で亡くなりました。全国平均は5%です。
 これは、病人や家族に、自分の家で死にたい、死なせてあげたい、という固い意思があったから、できたのです。在宅ケアの診療報酬は、次第に健康保険の中に新設されていきました。

 62歳の肺がんの男性の場合、書斎にベッドを置き、最期は家族一人ひとりを呼んで、自分の思いを伝えたそうです。そして、ベッドから身を起こし、家族の手を握って、「ありがとう、ありがとう」と言って、亡くなりました。その人らしい最期を送ることは、ホスピスでも難しいと思います。
 自宅で最期を迎えることができないということは、医療、福祉のあるべき姿ではありません。90%の患者が病院で亡くなる国は、先進国では日本だけです。

 さとう・あきらさん 東京白十字病院院長などを経て、81年から現職。在宅医療を推進する医師の会会長。著書に『在宅ケアを考える』(日本評論社)など。
●24時間体制の介護を 宮崎和加子さん

 私は訪問看護婦です。東京・足立区北千住で17年間、自転車で、寝たきりのお年寄りや末期がんの患者さんのお宅を回ってお世話してきました。
 7年前、デンマークでは機具類を使い、患者さんたちを起こしてお世話していることを教えられ、ショックを受けました。お世話は手と心だけでできるものではなく、いい機具を使って、ご本人の残っている力を生かすことが大事だと学び、そのための専門家集団をめざしてきました。

 92年に、「訪問看護ステーション」という形で病院から独立し、昨年、「巡回型24時間在宅ケア」を始めました。夜1回のおむつ交換にだれかが行きさえすれば入院せずにすむ人が、大勢いたのです。
 現場にいると、介護する家族はいなくなっている、年老いている、と感じます。家族がいないことを前提に、24時間カバーの介護をしなければだめです。私的に密室で家族が行うのではなく、公的にプロが責任をもって行わないと、「寝たきり老人」はなくせません。
 世話をされる人が輝くには、周囲の家族も世話をするプロも輝かないとだめです。低賃金でパート的なものでは、介護の仕事はうまくいきません。

 みやざき・わかこさん 78年から訪問看護に携わる。著書に『看護婦は自転車に乗って』(筑摩書房)、『家で死ぬ』(勁草書房)など。
●患者の尊厳、取り戻せ 高柳和江さん

 母はそのころ67歳で、いたって元気でした。ただ足が痛いので、入院すると、検査のたびに食事抜き。体力がなくなって、あっという間に寝たきり状態になりました。
 私は、当時いたクウェートで療養させたいと思いました。飛行機から降りて来た母は、やっと私の顔が認識できる程度でした。日本から持たされた薬はやめさせ、リハビリをすることにしたのです。

 まず個人の尊厳を取り戻そうと、香水を振りかけ、口紅をつけました。ピンクの服を着せて、「お母さん、きれいね」と言い続けました。寝かせないように、ベッドには掃除機や本などを置いておくようにしました(笑い)。
 少し元気になったら美容院に連れて行きました。自宅でパーティーを開いて交流の機会をつくり、「食べられない」と言うと、わざとおおげさに「もったいない」と言って捨てました。すると主婦感覚が残っているためでしょうね、「じゃあ一口でも」と食べるようになりました。

 母は一カ月で元に戻り、家族と楽しんだ夏休みの欧州旅行では毎日、ホテルのプールで泳ぎ、元気に歩き回って日本に帰れました。
 体験を通して知ったのは、家族の介護には限界があるので社会の支えが大切なことです。

 たかやなぎ・かずえ クウェートで10年間、小児外科医として勤務し、87年に帰国。現在は病院管理学が専門。著書に『死に方のコツ』(飛鳥新社)。
○患者いやす社会の連帯

司会  上村さんの奥さま、八代衣(やよい)さんに、「介護の苦労を本音で聞かせて下さい」との質問が会場からありました。

上村八代衣  夫を見捨てるわけにもいかず、仕方なく面倒をみているんです(笑い)。ただ、自分がかわいいので、自分の人生を充実させるためにも、機器を導入したり、少しずつ生活を作りあげてきました。ノイローゼになりそうになったこともありましたが、「今より下はない」と開き直ったら、怖いものはなくなり、楽しい人生を送ろうと決意できたのです。

司会  では、隅谷先生の提言された公的な介護保険について議論したいと思います。

上村  介護保険にも新ゴールドプランにも、障害者という文字が入っていません。在宅介護のホームヘルパー制度、ショートステイサービスでも、地方では高齢者だけが対象です。行政に問い合わせても、「家族がいるなら、ヘルパーは必要ないでしょう」と言われました。行政の担当者は無理解か不勉強か、実情を分かっていないなぁ、というのが私の印象です。

佐藤  皆が具体的提言をしていく時期です。上村さんのような人が、だれもが承服する形でデータを出す。その積み上げが必要なんです。

宮崎  介護保険から家族に手当を出すという案には全面的には賛成できません。お金が家族にばらまかれてしまい、きちんとした質の介護にお金が回ってこない可能性があります。これまでのヘルパーのような「滞在型」ではなく、「巡回型」で短時間ずつ、一日に何回も行くようなサービスも同時にしていかないと、むだが多いのです。新ゴールドプランの西暦2000年にヘルパー17万人ではとても足りません。その数倍は必要です。

高柳  家族によるお世話は精神的なものにして、実際の介護は公的に保障すべきです。それなら家族も精神的に安定し、肉体的にも楽なのです。公的な費用による看護者、介護者が増えれば、社会全体への経済効果も出ます。

上村八代衣  本当にその通りです。現在のヘルパー制度すら十分に適用されていないので、三百六十五日休めません。公的サービスがあれば、私自身、もっといい人生を送れるように思います。

隅谷  介護というと、対象は老人だけではないかと上村さんは心配されていますが、私も入っている「社会保障将来像委員会」の第二次報告は、身障者の介護問題も、スペースは小さいですが提言しています。
 委員会は、公的介護保険を作ったらいいと言っただけで、どういう形で作るか、はっきりとは提言していません。

司会  「病んでも輝いて生きる」ことを今の病院や医師は重視しているでしょうか。

佐藤  私は職員百五十人の病院で院長をしたことがありますが、検査をたくさんして、どんどん治療する。そうでないと職員の給料が払えないのが現実です。がん告知でも、在宅なら、ゆっくり腰をすえて話せます。

高柳  病院は病気を治すために入るのに、入ったとたんに病気になる、というところがありますね。
 私たちは、病院長や看護婦、病院建築や室内装飾の「ヒーリング・アーチスト」と呼ばれる人と一緒に、「癒しの環境研究会」を発足させました。

隅谷  医師は医学を勉強します。医学は病気についての学問です。医師は病気のことはよくわかるが、病人のことは知らないですね。病人は病気のために悩んでいるのです。健康保険は、病気に点数をつけて金を払っていますから、病院だけを責めることはできませんが……。
 悩んでいる病人に、医師よりも接しているのは看護婦です。看護婦の病院内での地位が、日本では低すぎます。もっと権威を認め、看護する人間としての処置に独自性を認めるべきです。医師の言う通りに雑務をする、という位置付けの准看護婦制度は、廃止すべきだと思います。

宮崎  隅谷さんがそう言って下さるのは、大変うれしいことです。
 私は訪問看護を一時期して、また病棟に戻った時、非常に矛盾した体験をしました。在宅では周りに点滴も人工呼吸器もないので、亡くなる方が高齢で命も短いことをみんなで確認し、最期を苦しませないことについて合意を得れば、何も使わずにみとれたのです。

 ところが同じような患者さんが病棟に入って私が婦長として黙って死なせると、死を自分が早めているのではないかというような気持ちに陥ったのです。

司会  上村さんと同じ症状の方は、ほとんど入院しています。退院のために工夫された点は。

上村八代衣  自分で排便ができないので、なるべくお通じの良い食事をと心掛けてはいます。今は3日に1回だけ浣腸を使って15-30分くらいで排便を済ますようにしています。おしっこは、昼は手作りの蓄尿袋、夜はそれを外して、しびんを使っています。私が二、三日家をあける時は、コンドーム式の蓄尿袋をぶらさげています。

○人材・機器の充実不可欠

司会  美しく輝く大前提として、こうした熟練した介護が不可欠なのですね。ところで、みなさん、輝くための手段として機器を使いこなしておられるようですが……。

佐藤  在宅ケアは、患者さんの情報がどこにいても取れるようにしないといけません。私は往診した後、患者さんの情報をパソコンに打って、自動車電話からライフケアセンターに送ります。すると、それをチームで仕事をしている別の医師がすぐに見ることができます。

司会  往診先でちょっと血を採るだけで、検査データが得られるそうですね。

佐藤  血液をチップに載せてかわかし、封筒で送ると、必要な検査をして、結果をファクスで教えてくれる方式も開発中です。

上村  昨年、同じ障害者の人たちで会合したときに、移動ベッドで参加した人が二人いましたが、二人とも「自分に乗れる車いすはない。これでしか動けない」と思い込んでいました。なぜかといえば、障害者一人ひとりのところまで、福祉機器などの情報が伝わらないからなんです。
 支援機器の開発に先立って、現在あるものがすべての障害者に的確に伝わるシステムがまず必要と思います。次には使う当事者が自分で工夫しながら使い、使いにくい点は、どんどん提言していくことです。また、日本ではリハビリエンジニアが不足しています。私のようにいろいろと開発してもらった人間は数えるほどしかいません。いろいろな人がすぐに相談に行ける拠点が必要です。

司会  最後に、美しく輝くためのご提言を。

高柳  私はこれからの医療社会では、個人や社会が育たねばならないと思っています。個人が育つというのは、フルタイムの患者からパートタイムの患者ということです。上村さんは、そのお手本です。
 社会が育つということでいいたいことのひとつは、高齢者を社会に取り戻す運動です。沖縄では高齢者は97歳からだそうです。
 これからは障害者、高齢者が輝いて住める町を造ってほしい。例えば、駅に必ずエレベーターを備える。歩道橋ではなく、車の方が上がったり、もぐったりする道路といった、人間が中心の都市を……。家を造るときも車いすが走り回れるように。

宮崎  「看護や介護に社会的評価を」といいたい。看護や介護が家事労働と同じように「だれでもできる」と低く見られる傾向がありますが、そうではなく、社会で非常に大事な専門職です。
 また、介護にあたる者はプロとして取り組む必要があると思います。それだけ給料ももらわないといけませんし、もらえばプロとしてきちっとできると思います。

佐藤  在宅医療を実現するための提言をしたいと思います。まず、地域で、互いに報い合う「互酬制度」、「顔と顔の見える関係」を作るよう努力すべきです。さらに、医者が高額の投資をして診療所を造らなくても、応接間のようなところで患者さんの話をじっくり聞ける、それが健保で認められるような体制が必要です。
 また、医療と福祉サービスを組み合わせて提供するコーディネーターの育成も欠かせません。

司会  福祉と医療の名コーディネーターでもある上村さんの奥さま、どうぞ。

上村八代衣  主人は病院では病人でしたが、家では検温も消灯もなく、人間になりました(笑い)。

上村  二つのお願いがあります。日本も障害者を受け入れる社会になってほしい。例えば、リフト付きの路線バスを使えるのは、車いすの人たちだけで、つえをついたお年寄りはステップからしか乗れません。欧米では低床バスが一般的です。
 それと、障害者が仕事をすることを、社会が受け入れてほしいと思います。交通手段など、障害者が仕事をもてるような社会になることを祈っています。

隅谷  私も障害者の就職問題を真剣に考えるべきだと思います。そのことは、審議会の提言にも書きました。また、コーディネーターの役割も重要です。福祉行政は縦割りのため、サービスを受けようという人は右往左往してしまいます。地域の中で、十分に考えて、処置を決めていく機関が必要です。社会福祉の主体は地域におろすべきだと考えています。
 また、社会で個人化が進んでいますが、障害者も快適に暮らせるような、社会的な共生、連帯性が日本社会にも普及しないといけない。日本ではボランタリズムが足りません。外国には、その空気、制度、人材がそろっています。日本でもそういった空気が醸成されるよう、今後も議論を深めていくべきでしょう。

司会  ボランタリズムとは自分自身の中からわき出る自発的な行動ですよね。それが、政治や社会を変えるはずです。病んでも美しく輝いて生きられるような社会を築くための、体験に根ざしたご提言をありがとうございました。

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