世界ところかわれば

細田 満和子さんの『ボストン便り』
『ボストン便り』第5回
「オバマのヘルスケア改革」

「ヘルスケアはもう待てない!」集会

総選挙をはさんだ8月末から9月にかけての1週間の日本への一時帰国からボストンに帰ってくると、友人のペギーからメイルがありました。
「レイバー・デイ(労働者の日)にボストン・コモンで民主党のヘルスケア改革集会があるから一緒に行かない?」。
ボストン・コモンというのは、市街地の中心に位置する広大な公園で、夏には野外音楽、冬には氷の彫刻展などが催され、選挙演説や市民集会などが行われる、日本で言えばちょうど日比谷公園のような所です。
レイバー・デイは毎年9月の最初の月曜日で、今年は9月7日でした。翌日8日から学校が始まる娘2人を連れ、ペギーとそのパートナーであるフランクと共に、ボストン・コモンに出向いて集会に参加してきました。

この集会は、オバマの民主党支援者などが中心になって主催したもので、何人もの民主党代議士やボストン市長トーマス・メニーノなどがスピーチに駆けつけていました。参加者は「ヘルスケアはもう待てない!Health Care Can't Wait」、「かかりつけ医にヘルスケア改革をさせ続けよう!Keep Your Doctor Reform Health Care」などと書かれたプラカードやうちわを持って、スピーチの行われる見晴台の周りに集まっていました。

そうしたプラカードの中に、「テッドのためにやろう!Do it for Ted!」というのがありました。「テッド」とは、2009年5月に亡くなったマサチューセッツ州代表のエドワード・ケネディ上院議員の愛称です。彼は長年ヘルスケア改革に取り組み、マサチューセッツ州民皆保険の成立時は立役者のひとりでした。そして今度は全国規模のヘルスケア改革に、文字通り生涯をかけていた最中に病に倒れたのでした。
参加者達は秋晴れの空の下でプラカードを持って、スピーチを聞き、時折大きな歓声を上げ、ヘルスケア改革の早期実現をアピールしていました。翌日の新聞によれば参加者は1000人を越えていたそうです。

ところでマサチューセッツ州では2006年にヘルスケア改革法が成立し、すでに公的保険があります。それなのになぜ今さらヘルスケア改革を求める集会が行われるのでしょうか?

それは、たとえ州レベルでは改革が実行され自分達はよくなっても、アメリカ全体では無保険者あるいは高額な保険料に苦しむ人がたくさんいるから、全国規模での改革が必要だと、まさに代弁(アドヴォケート)をしているからです。

ペギーは、「ボストン便り 第4回 患者会のアドボカシー活動」で紹介したブレイン・インジュリー・アソシエーションで知り合って以来の友人です。彼女は、全く過失のない事故で脳障害になり、足が不自由で杖を使っているので、障害者として公的保険であるメディケイドに入っています。パートナーのフランクは、長い間アメリカ空軍で働いていたので、退役軍人用の掛け金が安くて保障のしっかりした特別の保険に入っています。つまり二人とも自分達の健康保険に関しては問題がないのです。

ところがオレゴン州に住むペギーの義理の弟はそうではありませんでした。
あまりの保険料の高さに、今年の3月に低価格の健康保険プランに切り替えたため、それまで定期的に飲んでいた治療薬を中止せざるを得なくなり、6月に脳卒中になってしまったのです。
アメリカの私的保険では、新規に加入する場合、既往歴のある病気はカバーされないことになっています。そこでペギーの弟は、持病の薬は自費で払うしかなくなり、飲むのを中止するという選択をせざるをえなかったのです。彼はアーティストなのですが、この不況で作品がなかなか売れず、家のローンを払い続けるために安い健康保険に切り替えたのです。その彼が、どうして自費で高額の薬を買うことができるでしょうか。

適正な公的保険さえあれば、弟は治療薬を飲み続けられ、脳卒中にならなかっただろうに。ペギーはこう悔しがります。この集会に参加している人たちは、他の州に住む家族のため、困っている見知らぬ誰かのために、ヘルスケア改革が実現することを願って集まっていたのでしょう。

シングル・ペイヤーからパブリック・オプションへ

それでは、オバマの推進しようとするヘルスケア改革はどのようなものでしょうか。
ひとつの大きな柱は、現存の私的保険に入れない人々に対して、政府がパブリック・オプションを用意することにあります。
これは2008年の大統領選の時の認識とは若干異なっています。すなわち2008年の時点では、ヘルスケア改革では政府が一元的に健康保険を統括するシングル・ペイヤー方式が求められていました。
しかし現在のパブリック・オプション方式は、従来からの私的保険に加えて、人々が「選べる」ような公的な健康保険を政府が用意するというものです。

このパブリック・オプションが推進されるようになったのは、いきなり私的保険をなくして公的保険一本にすることに対して、大きな反対勢力があるからです。
反対するのは、もちろん保険会社ですが、今までどおりの報酬が約束されるかどうか懐疑的な医療専門職、サービスの水準が低下するのではないかと危惧する患者や一般市民も反対に回っています。
そうした反対勢力を納得させるために、既存の私的保険に付け加えるという形での公的保険という選択肢を設ける方式になったのです。

パブリック・オプション方式はたしかに一種の妥協の産物ではありますが、ここに是が非でもヘルスケア改革を敢行するために妥協点を探ろうとするオバマの姿勢が見て取れます。そして、ここには、ひとたびこの制度が軌道にのれば低価格で良い医療を受けられるので、私的保険を持つ人も、合理的な選択をするのであればパブリック・オプションに切り替えるようになり、結局はパブリック・オプションに一本化されるという見込みもあります。

それに付随する改革のもうひとつの大きな柱は、このパブリック・オプションでは持病もカバーされるという点にあります。
基本的に従来の私的保険では、既往歴があったらそれは保険の対象にはなりません。すなわち既に糖尿病の診断が付いていたならば、糖尿病に関する治療や薬は保険でカバーされないのです。これでは病気を持つ人は、持病を保険で治療できずに健康状態を悪化させるか、何のための保険か分からなくなり無保険者になっていってしまうのです。ペギーの弟もまさにこうした私的保険の犠牲者でした。

このような私的保険による負の連鎖を断ち切り、持病のある人も安心して医療を受けられるようにするのがヘルスケア改革なのです。今年(2009年)8月15日のニューヨーク・タイムスにオバマは、「なぜヘルスケア改革は必要なのか」と題する改革の重要性を説く寄稿をしています。
その中で彼は4つの改革を挙げています。
第1に、質が高く納得できる価格の、引っ越しても職が変わっても失業しても継続できる公的保険を提供する。
第2に非効率に支出されるメディケア・メディケイドを是正し、保険会社を肥えさせるだけの政府の私的保険への財政投入を廃止し、青天井となった国民医療費を抑制する。
第3にメディケアを効率化して高齢者医療の適正化を図る。第4に既往歴のある人も保険に加入できるようにする。

混迷するヘルスケア改革

2009年8月18日に発表されたNBCテレビの世論調査では、ヘルスケア改革に賛成が41パーセント、反対が47パーセントでした。しかも8月19日に公表されたラスムセン社の全米世論調査では、オバマ政権に対する「強く支持」が全体の32パーセントなのに対し、「強く不支持」が38パーセントとなってしまいました。
数ヶ月前まで70パーセント台の支持率だったのにもかかわらず、この支持率が急速に低下した背景には、ヘルスケア改革に反対する人々が多いことが考えられています。

では、それはどうしてなのでしょうか。アメリカ国民はヘルスケア改革を望んでいないのでしょうか?
マス・メディアやインターネット上では、現行のヘルスケア・システムの下で医療にアクセスできない人々、高額な治療費に苦しむ人のストーリーが、まるでマイケル・ムーア監督の映画『シッコ Sicko』を見ているかのような映像または文章で伝えられています。
その半面で、ヘルスケア改革が行われたら医療現場はとんでもないことになる、という「うわさ」もいろいろと飛び交っています。そうした「うわさ」には、公的保険にしたら医療機関への受診者が殺到して、待ち時間が長くなって従来どおりのサービスが受けられなくなる、自由に医師や受診機関を選べなくなる、というのがあります。
このように言う人たちは公的保険を、自由を尊ぶアメリカ人の最も嫌う「医療の社会主義化 Socialized Medicine」と名づけ、改革に反対しています。

それから、法案の中にある適正な医療を監視する機関「健康保険審査会 Health Care Panel」が、高齢者や障害者への医療を制限するようになるという「うわさ」もあります。
この「うわさ」を広めているひとりが、前アラスカ州知事で前共和党副大統領候補のサラ・ペイリンです。彼女は、医療監視のための機関に「死の審査会Death Panel」という恐ろしげな名前をつけて、オバマのヘルスケア改革は弱者切り捨てであると反対しています。これに対して全国民主党委員会は、「紛れもない中傷であり、単に人々を脅かしているだけで、自身の立場を貶めるものだ」とペイリンを痛烈に批判しています。

ヘルスケア改革の行方

2009年9月9日にオバマ大統領は、両院議員総会でヘルスケア改革についての演説をしました。その際彼は、改革にまつわる人々の危惧を打ち消し、共和党議員たちに改革への協力を訴えかけました。貧困層ではなくて中産階級の人たちが、保険料が高額のため、あるいは持病があるために保険に入れないこと、そしてひとたび大病になったら破産という事態になっていることを指して、アメリカは「民主主義国の中で唯一、富裕国の中で唯一、何百万人もの国民に、こうした苦難を強いている」とまで言いました。

そしてオバマは、ヘルスケア改革の志半ばで病に倒れたマサチューセッツ州代表の故エドワード・ケネディ上院議員(愛称:テッド)からの手紙を紹介しました。
「(ヘルスケア改革は)物質的な損得勘定以上のものです」
「われわれが直面しているのはまさしく道徳的問題なのです」
「問われているのは、政策上のこまごまとしたことではありません。社会正義の根本原理とわれわれの国民性なのです」。
手紙にはこのように書かれてあったそうです。

つまりオバマは、ヘルスケア改革の実現可否というのは、厳密に法制度を整えて正確な収支計算することではなく、アメリカ人が道徳心を備えた公共的精神の持ち主であるかどうかにかかっている、とアメリカ人自身に迫ったのです。故ケネディの手紙の紹介は、ヘルスケア改革にまつわる「社会主義化」や「弱者切捨て」となるという「うわさ」を打ち消し、手続きだけではなく理念の上でも改革に正当性を調達する手段として非常に有効だと思いました。会議場は、ファースト・レディであるミシェルの隣にいる、この日のために招待された故ケネディの妻と子ども達への暖かい拍手に包まれていました。
オバマの今回の演説は、不法移民への公的保険付与は「一切しない」と明言して、民主党支持者の間に物議をかもしたりもしましたが、マス・メディアを含めて概して好意的に受け止められたようです。

「ののしり合いに明け暮れる時は終わった。ゲームをしている時は過ぎた。今こそ行動を起こす季節がきた」と述べ、オバマはヘルスケア改革の待ったなしの断行を宣言しました。ボストン・コモンの集会でこだました、「テッドのためにやろう!Do it for Ted!」の掛け声がここでも聞こえてきた気がしました。

参考資料
・ニューヨーク・タイムスへのオバマの寄稿
http://www.nytimes.com/2009/08/16/opinion/16obama.htm
・2009年9月9日のヘルスケア改革に関する両院議員総会での演説の全文
http://www.whitehouse.gov/the_press_office/Remarks-by-the-President-to-a-Joint-Session-of-Congress-on-Health-Care/

▲上に戻る▲

世界ところかわれば・目次に戻る

トップページに戻る