目からウロコのメッセージの部屋

岩田健太郎さん(亀田総合病院感染管理室長)/2004.12

 かつて、予防医学といえば伝染病であった。結核の予防、赤痢の予防、コレラの予防、、、、、こうした「伝染病」を「衛生学」の専門家が予防する、というのが伝統的なパターンであった。この歴史は日本に限ったことではなく、ペストに苦しめられた欧州、黄熱病に悩んだ米国(かつてアメリカにも黄熱病はあった!)も例外ではない。

 20世紀も終わりになって、予防医学というと成人病、、という時代がやってくる。成人病というのは、いまでは生活習慣病という名前が付いているが、必ずしも生活習慣のみに規定される疾患ではないのでまずいネーミングといえる。糖尿病、高血圧、高脂血症(最近では善玉コレステロールの低下も問題なので、「高い」脂質だけを取り上げない、「脂質異常、dyslipidemia」という名称のほうがふさわしいが)。こういった疾患の発症を予防する。発症した後の病気の進行を予防する、という概念が進んでいく。

 いま、日本の医療は診断名がないと一歩も進まないしくみになっている。「高血圧」という診断名がついて、初めて治療ができる。「高血圧予備軍」に生活指導をしても、1円にもならない。喫煙者に禁煙を勧める、風俗に入り浸りな人に性教育を提供する、肺炎のリスクの高い人に肺炎球菌のワクチンを提供する、いずれも「診断名」がついていないので、「診療」とは見なされていないのだ。

 しかし、よくよく考えてみると、疾患名がついた人とそうでない人の境界線はそんなにはっきりしているわけではない。高血圧予備軍と高血圧の患者にどれだけ大きな違いがあるというのだろう。そもそも、高血圧「そのもの」は治療の目標ではない。高血圧によって起きる脳卒中や心筋梗塞といった病気を「予防」するために血圧を下げているのである。したがって、高血圧治療とは詰まるところ「予防行為」なのである。高血圧の治療はまず薬、ではない。最初に生活習慣の教育、食事指導、運動指導となる。高血圧予備軍にも、同じアドバイスが提供される。診断名がつくかつかないか、の違いでやっていることは変わりない。変わりはないのに、前者は医者にかかって保険診療の対象となり、後者はならない。なるほど、古来より人間とは名前を付けるという行為によって文化を構築してきた。しかし、診断名がつかないと医者にかかれない、というのはもう時代遅れの考え方ではないだろうか。

 肺炎の患者さんを治療する。二度と肺炎にはかかりたくないから、これからどうしたらよいか相談を受ける。治療は予防の第一歩。心筋梗塞直後が一番禁煙成功率が高い。肺炎の予防に一番効果的なのは、肺炎球菌ワクチンだ。それで、ワクチンを勧める。保険はきかない。病気の名前が付いていないと、保険はきかない。混合診療の議論が盛んだけれども、それ以前に今の保険診療が本当に21世紀の医療にあったものなのかどうか、真剣に考えてほしいと思う。目先の業務をこなすことであっぷあっぷになっていないか?

 国によっては、診療報酬が「診断名」と完全に切り離されているところもある。「初診で40分患者さんを見る」にいくら、「再診で検査の結果をフォローするだけ」にいくら、と値段を付ける。これなら、患者さん全体を包括的に見ることができる。今の医者は病気ばかり診て患者さんは見ない、という批判があるし、その大部分は事実だなあ、と感じるけれど、それはいまの保険病名の制度が寄与しているところも多いんだよ、と私は思う。制度は「病気、病名」をみろ、といっているのだから。

 予防と治療は表裏一体で切り離せるものではない。予防の提供者は治療の提供者であるべきだ。別々にするなんてナンセンス。これが21世紀にあるべき医療の姿だろう。

 そこで考え直してほしいのが、保健所である。保健所は「予防」を提供する場所としての地位を持っているが、治療者たる医療機関と分断されている。時代遅れである。正直言って、いまのスタイルの保健所なんて要らない。

 HIV検査も予防接種も健康教育もみな医療機関が提供すればよいことだ。そうすれば「集団とおりいっぺん」のサービスではなく、もっとテイラーメイドなサービスを提供できる。20歳の若者にもPSA(前立腺癌のマーカー)を測ってしまう集団検診なんて必要ない。医療機関で予防行為の一環として検査をし、それで治療が必要なら(例えばHIV陽性なら)すぐに治療に移行できる。保健所の職員は2年間でローテートする役人たちで専門家と自称する素人が多い。結核の対応なんてひどい有様だ。苦情を言っても2年もたてばいなくなってしまうので抜本的な改革は不可能、みな現状維持で精一杯である。患者は医者や病院を選ぶことができるが、保健所は引っ越しでもしない限り選ぶことができない。競争は存在せず、素人気分の役人が増える一方である。

 さらにひどいのが保健所長である。臨床医の出来損ないが「でもしか」でなっている例が多い。そうでない立派な人もいるけれども、それは制度が補償してくれるものではなく、「たまたま」その人がいい人だった、という偶然のたまものにすぎない。何とならば、保健所長になるのにトレーニングは要しない。医師の免許を持っていればだれにだって保健所長になれる。ちゃんと保健所長たる実力があるかどうかは、誰にも分からない。臨床医なら、まあ欠点は多いけれども研修制度はある。トレーニングなしで執刀医になったりはできないではないか。

 実力さえあれば、保健所長は栄養士がやろうが看護師がやろうがかまわない、と私は思う。「医師としての知識が必要?」20年も臨床から離れていて勉強もろくにしていない保健所長の古い知識と変なプライドは、むしろないほうが望ましい。保健所長に必要なのは知識ではなく、知識のある人間を使いこなすリーダーシップと管理能力である。医師国家試験を合格するまでの道のりで、医学生はリーダーシップや管理能力の訓練にほんの数分の時間も費やしていないことを思い出してほしい。不適性な保健所長が多いのは、当たり前のことなのである。最近、保健所長の資格拡張の議論は専門家の間では盛んだけれど、こういう本質的な部分ももっとつっこんで議論した方がよい。つまるところ、医者は保健所長としては栄養士よりは役不足である。

 予防と治療は一体にし、「病気」ではなく「患者(あるいは病気がないので、普通に「人間」と呼ぶべきか)を対象にしなくてはならない。まずは保険病名の撤廃、そして保健所の改新か廃止が、手っ取り早い方法だろう。

▲上に戻る▲

目からウロコのメッセージの部屋・目次に戻る

トップページに戻る