高齢福祉政策激動の部屋

弘前大学大学院助教授 金沢善智さん

 今回の福祉用具貸与に関する介護保険改正で被害を受けるのは、比較的金銭的にあまり余裕がなく、かつ、日常生活の一部分を「やれば何とかできるのだが、かなりの努力を要する人たち」でしょう。
 高収入の方々は、特殊寝台でも、車いすでも購入すればよいので、あまり心配ではありません。教育と同じで、介護も、本人がどうのこうのというよりも、家族の経済的事情や価値観による「格差」によって決められてしまう、という事実を再認識させられそうです。ある意味、経済的に恵まれていない人たちへのセーフティネットの一部が、消滅させられたとも受け取られます。

 したがって心配なことは、あまり裕福ではなく、@「(金銭的に)家の人に迷惑をかけるから、我慢する」という人や、ある程度のお金はあるにしてもA「(自分のために)ベッドや車いすを買うなんて、もったいない」という人(戦前の教育を受けた人に多いです)、B「もう、長くないから、このままで・・・」という家族を持ってしまった人等々の人たちの心身機能の低下です。それ以上に、自分が長生きしたことや生まれてきたこと自体を後悔する人が、多くなるのではないかということが心配です。
 「少し大げさだ」と思われるかも知れませんが、介護度の軽重に関わらず、ちょっとしたことに一喜一憂する人たちなのです。

 厚労省をはじめとする保険者側の人たちの多くは、人の生活は「瞬間的なもの」と勘違いしている(そう、思い込もうとしている?)ように思えますが、当然ながら、生活とは「継続的なもの」です。外部から調査員などが入った瞬間は、がんばってできている動作も、毎日繰り返される生活の中で可能な動作とは限りません。「がんばればできる」かも知れませんが、動くことのすべてが、「トレーニング」であったならば、私ならばすぐに、そのような生活に嫌気がして、「動くことを止めてしまう」と思います。

 障害者や高齢者に関する制度を考えるときに、必ずと言っていいほど出てくる考えが「Reasonability」で、私はこの言葉が大嫌いです。介護環境でいうならば、パーフェクトに揃えてしまうと体がなまるので、「適度な負担感」を残しておこうというぐらいの意味合いなのでしょうか?
 これまでの私の現場経験からですが、人は「楽なこと」や「楽しいこと」が生活の中にあるからこそ、そうでないときにもがんばられるのだと思います。ところが、動くことすべてに、「苦労」が付きまとうならば・・・。

 私は少なくても、ご利用者に「リハビリになるから、がんばれ!!」などとは言いません。なぜなら、みなさん、常に日常生活の中で、十二分にがんばっていらっしゃるからです。そしてさらに、人の手を借りないように、少しでも自立しようと「福祉用具」を駆使して、生活の継続を成し遂げている人たちだからです。その人たちが制度上で使いたいという選択肢を減じることは、障害・介護予防の観点からしても、とても効果的とは思えません。
 いずれにせよ、感情論や経験論では説得力がありませんので、今後この辺のデータ蓄積をみなさんで協力して行い、第三者的に「公平」に分析する必要もあります。

 一方、私は、これまで障害を持ちながらもがんばって生活をされているご利用者から、さまざまなことを学ばせていただいたサービス者の一人として、今回の制度上の後退に関して、申し訳なくて仕方ありません。介護度が「軽度」と呼ばれている人たちが特殊寝台や車いすなどを使用することによってもたらされる「介護予防効果」などについて、もう少しきちんとしたデータ蓄積と分析を行ってこなかった自分に、腹立たしい思いです。

 何とか300メートル歩ける人が、150メートル向こうのコンビニに行くことはできても、帰りのことを考えれば、買い物(目的)はできません。いや2回ぐらいは、汗だくになって、自分に「リハビリだ!!」と言い聞かせて、何とかできるかも知れませんが、身体機能をギリギリまで酷使するのですから、そう長続きはせずに、すぐに買い物に行かなり、家に閉じこもることになるでしょう。私の経験では、要介護1ぐらいの人に、このような人がたくさんいらっしゃるのです。行き帰りを車いすで、そして店の中を思いっきり歩いていただいた方が、「生活を継続させられる」のです。私はそういう人と、たくさん接してきました。

 寝ている状態から起き上がるときに、汗だくになって、30秒から1分近くもかかる人は、起き上がるだけで疲れてしまい、その次に続くはずの「立ち上がること」や「歩くこと」を止めてしまいます。そういうときに、ベッドの背上げ機能を使って、少しだけ楽をさせてあげると、驚くほど楽に、早く起き上がれるものです。そして、それが次の活動につながります。これこそ、「介護予防」でしょう。高機能でなくてもよい、ちょっとした電動サポートが必要だということです。特に、関節リウマチのように、1日の間にも体具合がめまぐるしく変わる「日内変動」や、日によって全く身体機能が変わってしまう「日差変動」の方々には、要支援や要介護1レベルの人にも、特殊寝台や車いすは「生活必需品」でしょう。

 今回の福祉用具貸与に関する改正では、「原則」使えないのだから、「例外はある(使ってもいい人がいる)」と言うことになりますが、その例外の状態像が、改正ではあまりにも大まかです。どのようにも理解可能です。また、一歩譲って、この例外部分を現場で機能させるには、その福祉用具の導入理由を適切な文章でまとめる能力(主に、ケアマネ)と、導入理由の文章を的確に読解する能力(保険者側)が必要です。たぶん、双方にかなりのトレーニングが必要となりますが、そのトレーニングをやるにしても、その担当者が育つまでの間は、善し悪しを判断できないことを棚に上げて、「例外は認めない!!」と言うことになるのではないかと、この点も不安です。この「棚上げ」時期の判断事例が、悪しき「前例」にならなければよいのですが・・・。

 我々が考えなければならないことは、当然、限りある保険料を有効使用するためのコストパフォーマンスを含めて、保険者側の能力で善し悪しがわからないからとサービスを利用者から奪い取るのではなくて、適時・適量・適切なサービスを提供する「人」と「システム」を作ることだと思います。ここに努力をしないで、福祉用具使用状況についての調査がたまたま入った、少しばかりの地区の状況を、いかにも国全体のことのように決め込んでサービスを減らすということは、無理があると思います。今後は、人とシステム作りと平行して、実験計画法に則った、きっちり無作為化した調査が今後望まれます。
 何よりも、今後のご利用者の価値観のさらなる多様化を考えると、他のマンパワーによるサービスと比較してリーズナブルで、しかも、個人ベースでより長い期間「自分らしさ」を持続できる福祉用具の一部が使用できなくなったという点は、本末転倒だと思ってしまうのです。

 ミクロ的な視点(ご利用者、サービス者)やマクロ的な視点(行政)などの次元の違いも理解できますが、もっともっとみなさんで、この福祉用具国民会議のような場所などで、意見交換をしてほしいと思います。そして、今回の5品目に限らない福祉用具に関する、フェアで有効なデータ蓄積のための「協力の場」にしてもらいたいと思います。そういう意味で、この「福祉用具国民会議」の開催に大変な意義を感じます。そのときには必ず、「もし、そういう立場に『自分』がなったならば・・・。」という、「ホスピタリティ(ここでは、『自分がサービスしてほしいように、相手へのサービスを考え、実践する』という意味で使っています)」を前提に、議論が展開されることを期待します。
 今回の福祉用具の改正について、北の地から危惧する者からのお手紙を、取り急ぎ、お送りいたします。

 金沢さんのHP:http://www.hs.hirosaki-u.ac.jp/~ptkanazawa/


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