物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

第58話 イギリスから学んだ訪問看護 (月刊・介護保険情報2009年5月号)

◆「出会い」と「死」と◆

日本看護協会の広報部長としてメディアから信頼されていた村上紀美子さん。5年前、定年までかなりの日を残して退職し、「なぜ?」と、話題になりました。
決心を後押ししたのは、2人のナースとの出会い、そして、死でした。
1人は、若き日の辻哲夫さんを訪問看護のトリコにした紅林みつ子さん(57話)。審議官、事務次官になった辻さんが在宅ケア重視の政策を打ち出すきっかけをつくりました。もう1人は、ターミナルケアの達人寺本松野さんです。

「"マジック"と言われる2人の看護のエッセンスを、あとに続く日本の後輩たちにきちんと書き残さなくてはいけない! そう思いました」
「ところが、2人とも、亡くなってしまいました。人はいきなり死んでしまう」
「"時間"は限られている。したいことをする時なのだと、看護協会を辞めました。」

◆訪問看護の本場で◆

看護ウォッチャーの村上さんによると、日本では、明治・大正・昭和のはじめまで、「お金と家のある上流層」に、「家庭看護婦」を雇うしきたりがありました。
一方、ナイチンゲールの国、イギリスでは、1889年には、すでに訪問看護の全国組織がつくられていました。1948年、ナショナル・ヘルス・サービスの制度が国会で承認されたとき、その中に、在宅医療と訪問看護がしっかり組み込まれていました。

1970年、看護教育方法論の研修のためにイギリスを訪ねた季羽倭文子さんは、「訪問看護」という言葉に、ここで初めて出会いました。
研修を終えて帰国したあとも、このことがアタマから離れません。日本大学の看護専門学校で教育の仕事をしながら、夜、英語の勉強を続け、73年再びイギリスへ。エジンバラ大学の看護管理コースで訪問看護のシステムを、ロンドンのノースロンドンポリテクニックで訪問看護の実際を学び、英国の訪問看護師の資格を取得しました。

季羽さんが感動したのは、イギリスで、ナースが実に尊敬されていることでした。
偶然おしゃべりした相手が「ナースですって! 素敵!」と目を輝かせたり、クリーニング屋さんが料金を割引してくれたり。
留学が終わりに近づいたころ、季羽さんに幸運が舞い込みました。上司でもある日大病院の院長、萩原忠文さんが学会でたまたまイギリスを訪問したのですかそこで、こんな会話が交わされたのです。

「帰国したら何をしたいのかね」 「訪問看護がしたいんです」 「それは、新しいことかね」 「そうです」 「じゃあやってみなさい。ただし、スタッフは君一人だけだよ」 当時、訪問看護には診療報酬はついていませんでしたから、すべて病院の持ち出しになってしまうのです。

◆机1つから、全国ホームケア研究会へ◆

75年、医療相談室の中に机を1つもらった季羽さん、全科の病棟を回り、訪問看護で支えられそうな患者さんを探しました。小児科、産婦人科、呼吸器科。。。
次第に、教授たちからも信頼され、依頼されるようになってゆきました。登校拒否の子どもを頼まれたこともありました。

忘れられないのは、脳梗塞で手足がマヒし、気管切開と経管栄養をして長く入院していた人です。
娘さんは、「どうしても家につれて帰りたい」
担当医は、「そんなことをしたら1カ月で肺炎を起こして死んでしまいますよ」
ところが、退院後、季羽さんが頻繁に訪問看護に通い、機能訓練を重ねたところ、手が動くようになりました。しゃべることもできるようになりました。そして、7年を自宅で過ごすことができたのでした。

80年、季羽さんは、全国ホームケア研究会の設立に加わります。会長は大学教授の小林冨美江さん、副代表は季羽さん、そして、57話に登場した佐藤智さんの東京白十字病院での右腕、島田妙子さん。
中野区の訪問看護の中心人物の金井竹子さん、新宿区立区民健康センターの新津ふみ子さん、山崎摩耶さん、足立区の宮崎和加子さんたち20人ほどが熱心に経験を持ち寄りました。

◆看護協会に訪問看護開発室が◆

81年、季羽さんは、日本看護協会会長の大森文子さんにスカウトされて日大を離れ、協会の常任理事に。
「訪問看護を離れたくない」という季羽さんの願いを汲んで協会の中に訪問看護開発室が立ち上がりました。老人保健法が施行される直前のことでした。
写真は、その訪問看護開発室が始めた「看護協会立訪問看護ステーション管理者セミナー」の打ち上げ会風景です。前列右から2人目と3人目の間に顔を覗かせているのが、いまは亡き、紅林みつ子さんです。

季羽さんがイギリスから戻り、机一つで訪問看護を始めたころ、イギリスで訪問看護に出会い、感激している女性がいました。いまは、日本訪問看護振興財団の常務理事の佐藤美穂子さんです。
夫の転勤先のロンドンで長男を出産したのですが、ホームドクターの検診を受けて妊娠とわかると、配達されるミルクが1本増えました。
歯科医院にいってくださいという連絡もきました。
しばらくすると、お産はどこでしますか?とリストが届きます。
お産がすむとナースが訪ねてきて相談にのってくれます。

「私が何も知らなくても次々とサポートがとどくのには驚きました。これがほんとうのシステムだと思いました」
帰国した佐藤さんは、このような仕組みを実現したいという思いから看護協会にはいり、訪問看護開発室をへて95年、厚生省の老人保健福祉局老人保健課の訪問看護係長に。ここで訪問看護制度の組み立てにかかわることになりました。
写真は、97年秋、介護保険法案の提出を前にほっとした老人保健課の面々。
前列右から4番目が松谷有希雄課長(医政局長を経て現・多磨全生園園長)、その左後ろが、鈴木康裕課長補佐(現・老人保健課課長)、その左が岡本浩二課長補佐(現在・大臣官房参事官で、在宅医療推進室長兼務)、その手前が佐藤美穂子さんです。

写真に登場した医系技官の2人に当時のことを尋ねたら、こんな答えが返ってきました。
「96年に着任したとき、羽毛田信吾局長(現・宮内庁長官)から『君たちは、疾走中の急行列車に飛び乗ったようなもの。直ちに全速力で持ち場に着いてほしい』と訓示があったことを覚えています。法案の通常国会提出が頓挫して、臨時国会へ向けて巻き直しにかかったところだったのです」(松谷さん)。

「となりに介護保険制度準備室があり、老人医療のどの部分を介護保険の給付対象とするのかを熱く議論したものでした」(鈴木さん)

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