物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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■8年ぶりの入浴■

写真

 「国民皆介護保険制度の創設を!」という提言(写真)が『月刊総合ケア』に載ったのは、厚生省が介護保険構想を公にする3年前の1991年11月のことでした。  抜き書きしてみます。

 医療分野では国民皆保険のもと、保険証1枚できわめて容易に、しかも自由に治療を受けることができます。4人に1人が高齢者という時代が間近に迫っています。介護を中心とする高齢者保健福祉サービスについても社会保険方式を導入し、社会のごく一部を対象とするような"福祉"の発想にとらわれることなく、"いつでも、どこでも、誰にでも"の発想で再構成することを考えてよいのではないでしょうか。
「国民皆介護保険」の創設などと夢物語のようにも見えますが、動きは見られます。1989年発表の介護対策検討会報告書では、明確に、社会保険方式の検討の必要性が述べられています。本年改正された老人保健法では、医療機関以外による訪問看護制度が創設されました。この制度は医療保険制度に風穴をあけるものです。ひょっとして、こうした動きが、福祉分野まで広がるのでは……と期待しています。

 筆者は、当時まだ26歳だった伊原和人さん(現・厚生労働省官房企画官)です。
 人事担当の河幹夫さん(現・内閣府市場化テスト推進室長)の「若いうちに現場体験を」という方針で、その前年、伊丹市に出向。自ら設立にかかわった福祉公社の訪問入浴車の「運転手兼バスタブ据えつけ係」を志願して介護最前線を体験している最中でした。
 古いアパートの2階で暮らす老夫婦を訪ねた時のことです。バスタブに湯をはって背中を流していると、お湯の中から手を合わせて拝まれてしまいました。
 なんと、「8年ぶりのオフロ」だったのです。介護する妻も高齢で、銭湯に連れて行くことなど夢にも考えられなかったのでした。

 「霞ケ関にいた時には、ゴールドプランがほんとうに役にたっているのだろうかと不安になったこともあったのです。けれど、伊丹市で働くようになって、確かな手応えを感じました」と、伊原さんは当時を回想します。
 嬉しい手応えばかりではありませんでした。
 「いつでも、どこでも、誰にでも」という89年の介護対策検討会報告の提言とほど遠い、硬直した高齢福祉制度の仕組みに愕然としたのです。
 措置制度の下では、窓口まで出向いて実にややこしい申請書を書いたり、所得証明を提出しなければなりません。それを行政が審査し、可否を決めるのです。サラリーマン層は所得制限にひっかかって却下されることしばしばでした。実に使いにくいのです。

 民間介護保険を奨励する方式もありえます。けれどこのような方式をとっているアメリカの医療は、利用できない人の不満がつのり、各サービスの単価は上昇し、社会全体としてのコストアップを招いていました。
 保険証1枚で治療を受けられる、健康保険のような介護の「国民皆保険」ができないだろうか。
 伊原さんは、そう考えて「国民皆介護保険制度の創設を!」という提言にたどりついたのだそうです。
 けれど、スジが通った提言なら実現する、とはいかないのが日本の常です。

■自民党政権が終焉して……■

(表1)めまぐるしい政界ドラマと介護保険をめぐる動き
92.5 細川護煕氏「日本新党」旗揚げ
93.6 宮沢内閣不信任案可決
93.6 武村正義氏らが自民を離党し「新党さきがけ」結成
93.6 羽田孜氏らが自民を離党し「新生党」を結成
93.6 社会、新生、公明、民社、社民連の5党が、「非自民」連立政権樹立で合意。
93.7 小沢一郎氏が「細川首相案」で根回し
93.7 総選挙、自民・非自民ともに過半数に届かず
93.8 新党さきがけ、日本新党を巻き込み細川非自民政権。連立与党党首全員入閣。大内啓伍民社党委員長が厚相に。
93.10 大内厚相の私的懇談会「21世紀福祉ビジョン懇」発足
94.2 小沢一郎氏と大蔵省幹部が細川首相に「国民福祉税」を根回し
94.2 未明の記者会見で細川首相が7%の国民福祉税構想を発表。34時間後に白紙撤回
94.3 ビジョン懇報告 医療:福祉を2:3に
94.4 厚生省に高齢者介護対策本部設置
94.4 ドイツで介護保険
94.4 細川首相退陣
94.4 新生党の羽田孜党首が首相に。
94.6 朝日新聞一面特ダネ「制度審将来像委・公的な介護保険の導入求める報告を作成中」
94.6 非自民政権崩壊、自社さ村山政権発足。厚相に井出正一氏。
94.7 厚生省に高齢者介護・自立支援システム研究会設置
94.8 与党プロジェクトチーム新ゴールドプラン提案
94.9 制度審将来像委員会が「公的介護保険導入」を提言
94.12 高齢者介護・自立支援システム研究会が「公的介護保険創設」を提言

 たとえば、「ゴールドプラン」は、89年の参院選での自民党の大敗がなければ生まれませんでした。そのいきさつは、第10話「ゴールドプランと"男は度胸"3人組」でご紹介しました。伊原さんの「秋の夜長の夢物語か」という副題が現実になった背景にも、思いがけない政局の変動がありました。(表1)

 竹下派会長の金丸信氏が佐川急便事件で議員辞職。これがきっかけで竹下派が分裂し、自民党が割れました。そして、93年6月18日の衆院本会議で、自民党羽田派と野党各党の賛成多数で、宮沢内閣不信任決議案が可決された。それが、事の始まりでした。
 自民党から2つのグループが飛び出しました。武村正義さんを中心に、当選1-2回の若手10人が「新党さきがけ」を結成しました。羽田孜さん・小沢一郎さんたち44人も自民党を離党して新生党を結成。総選挙後に、社会、新生、公明、民社、社民連の5党で「非自民」連立政権をつくろう、と話がまとまりました。

 ところが、蓋をあけてみると、自民党は選挙前の勢力を一議席上回り、「抜きん出た第一党」と自信を見せました。評論家たちも、新生党と社会党の連立の難しさを指摘していました。
 そこに登場したのが、後に「政界の仕掛け人」「ワザ師」「壊し屋」の異名をとることになる小沢一郎さんです。
 日本新党党首の細川護煕さんを「今の政治状況は、あなたが昨年、日本新党を旗揚げしたときから始まった。逃げるわけにはいかないでしょう」と説得しました。ためらう細川さんに、「あなたには、歴史的な役割と責任がある」「あなたを支える有能なスタッフが、非自民側にはたくさんいる。首相になっても心配はいらない」「クリントンだって知事から大統領になった。熊本県知事の経験があるあなたに、首相をできないわけがない」と追い打ちをかけました。
 小沢さんが、総選挙直後から細川首相氏擁立に動いたのには、いくつかの理由があるといわれます。

・「自民党が生まれ変われば、連携もありうる」と、選挙期間中、自民党との協力姿勢を示したこともある細川さんを、何としても非自民側に引き寄せる必要があった。
・新生党へのアレルギーが強い社会党の左派が羽田首相に難色を示していた。細川さんなら、社会党内の亀裂も回避しやすかった。
・非自民連立政権は、政治改革が最大の看板とはいえ、景気対策、予算編成など、即座に対応を迫られる課題を抱えている。寄り合い所帯で、基本政策も各党まちまち。衆院で約230議席と最大勢力の自民党が、野党になって攻め立ててくるのは目にみえている。対応を誤れば、次期首相は大きく傷つき、ボロボロにされかねない。「細川首相」でこれを凌げば、新生党のエース羽田党首を温存できる。

 このような思惑から日本新党をたぐり寄せ、社会党も非自民の枠内に取り込んだ小沢戦略にとって、最後の難関になったのが、新党さきがけでした。
 細川さんからこの会談の模様を聞いたさきがけ代表の武村正義さんと代表代行の田中秀征さんは「細川さん、それは小沢の謀略だ」と反対。けれど細川さんは小沢さんに説得され、とき遅し。8月9日、細川連立政権が成立することになりました。
 38年間続いてきた自民党政権は終焉し、続く羽田内閣、村山内閣への扉が開かれたのでした。

■脚本・大蔵省、演出・小沢一郎……■

 細川内閣の厚生大臣は、民社党委員長の大内啓伍さんに決まりました。この状況に、「チャンス、到来」と喜んだ人物がいます。厚生省官房総務課長だった和田勝さん(現・国際医療福祉大学大学院教授)です。
 69年に入省、公害や医薬品、健保改正などの政策に取り組んで、早くから次官候補といわれていました。77年から4年間、三重県庁で児童老人課長を務めたときは県下の特別養護老人ホームを3倍以上の23施設に増やし、日本初の認知症特養の誕生を支援しました。ただ、特養ホームの落成式のとき町長が「寝たきりのおふくろ入れたら次の当選は狙えないな」と話すのを聞き、措置制度の下の差別感の残る特養の限界を痛感したのだそうです。

 和田さんは、国会対策、根回しの名人といわれます。なぜか、どの党からも信任が厚く、NHKの国会討論会のときなど、自民、社会、民社、公明の4つの党からそれぞれに「発言の筋書きを」と頼まれるという、不思議な特技をもっていました。
 橋本竜太郎さんや丹羽雄哉さんなど自民党の社会保障族議員の大ボスはもちろん、後に総理大臣となる村山富市さんたち野党の幹部とは上野や浅草の飲み屋で酒を酌み交わし政策論議を戦わす肝胆相照らす仲でもありました。
 大内さんの厚相就任の情報も密かにキャッチし、公表の3日前に古川貞二郎事務次官に引き合わせるという離れ業もやってのけました。民社党が新進党発足に伴って解散するときには感謝状を受けたというぐらい食い込んでいましたから、旧知の大内さんの大臣就任は大歓迎でした。

 93年10月14日、大内厚相の私的懇談会「高齢社会福祉ビジョン懇談会」(略称ビジョン懇)が発足しました。座長には大和総研理事長の宮崎勇さん、座長代理に慶応義塾長の鳥居泰彦さん。当時の新聞は、「高齢化や少産化に対応するため高齢者介護と児童福祉の問題を取り上げ、裏付けとなる財源問題についても論議していく。来年3月にも報告書を取りまとめる予定」と報じています。

 ところが、思いがけないことが起こりました。2月3日の未明、午前0時52分、細川首相が7%の「国民福祉税」を突然記者発表したのです。
 大蔵省の斉藤次郎事務次官と小沢一郎新生党代表幹事、市川雄一公明党書記長などごく少数の間で調整して一気に決着を図ろうとしたものでした。そのため、「脚本・大蔵省、演出・いちいち(小沢一郎・市川雄一)コンビ、主演・細川首相」と揶揄されることになりました。「福祉」いう名前がついているというのに大内厚相はまったくの蚊帳の外、「馬鹿にするにもほどがある」と激怒したと伝えられます。

■「ドイツの介護保険は眼中になかった」■

(表2)「国民福祉税」構想が34時間で消えるまで
【2月2日】
15時00分 国会内で連立与党の代表者会議。国民福祉税を非公式に打診
23時48分 首相官邸で政府・与党首脳会議と経済問題協議会の合同会議。社会党は「同意しかねる」
【2月3日】
0時52分 細川首相が記者会見。国民福祉税の導入方針を正式発表
2時15分 村山社会党委員長が記者会見で政権離脱の可能性を示唆
11時5分  武村官房長官が記者会見で「反省すべき」
11時16分 社会党の6閣僚が首相に再考を申し入れ
14時33分 連立与党代表者会議。福祉目的税とする妥協案を社会党に提示
17時10分 社会党中執委が「税率7%を白紙にする」などの方針を決める
【2月4日】
11時30分 代表者会議が減税を白紙に戻すことで一致

 日本新党の国会議員さえ「あまりにも唐突」と細川さんを批判。党本部には「裏切られた」「人が寝ている間に税金を上げる話をするな」と抗議電話が殺到。わずか34時間後に白紙撤回されることになりました。(表2)
 国民福祉税構想が持ち出される以前から、省内で介護保険についての検討が進められていたことは、第17話 「マル秘報告書と"黒子"たち」 でご紹介しました。そして、この構想、つまり、介護など福祉充実のために消費税を引上げるという構想があえなくつぶれたことが、厚生省として、介護保険という政策選択を本気で考える契機となりました。介護保険方式に舵をきることになった、これが節目でした。

 4月1日厚生省は高齢者介護対策本部を設置しました。この4月1日は、奇しくもドイツで介護保険が発足の日でした。そのため、「日本の介護保険制度はドイツを手本にしたもの」と多くの人が錯覚しました。そして、「ドイツ詣で」が始まったのですが、「ドイツの介護保険は、まったく、われわれの眼中にありませんでした」と和田さんはいいます。そのわけは、後の回に。

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