物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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前代未聞の研究会

 中村秀一さんが在スウェーデン大使館勤務を志願して、「そんなことをしたらキミの役所での将来はないよ」と忠告されていた1980年、厚生省社会局に、大きな起爆力を秘めた、小さな研究会が設けられました。「脳性マヒ者等の全身性障害者問題研究会」です。

 厚生省、学識経験者、障害当事者団体が同じ土俵で論議する、当時としては前代未聞の研究会でした。
ここで「自立」という概念が確認されました。
@真の自立とは、人が主体的・自己決定的に生きることを意味する。
A自立生活は、隔離・差別から自由な、地域社会における生活でなければならない。
B生活の全体に目を向けなければならない。
C自己実現に向けての自立が、追求されなければならない。
D福祉の主体的利用でなければならない。
 この研究会がきっかけになって、1年後には省内に障害者生活保障問題検討委員会がつくられました。
2年後には大臣の私的諮問機関、障害者生活保障問題専門家会が生まれました。それが、障害基礎年金の創設や身体障害者福祉法改正の原動力にもなってゆきました。
法の目的が「更生への努力」から「自立と機会の確保」に変わったのです。

忍者屋敷のような"秘密の隙間"

 研究会の仕掛け人は、78年4月に社会局の更生課長に就任した板山賢治さん、のちに、社会事業大学や全国社会福祉協議会の要職をつとめることになる人です。
 着任してみて、3年後に迫った「国際障害者年」の目標、「障害者の完全参加と平等」と日本の貧しい現実の差に愕然としました。
早速、実態調査にとりかかろうとしました。「データのないところに計画なし。計画のないところに行政なし」という信念からでした。

 ところが、障害者団体は実態調査に強硬に反対していました。「調査して、施設に無理やり入れようという意図に違いない」と疑ったのです。
厚生省と障害団体の当時の不幸な関係を象徴していたのが正面玄関のシャッターでした。厚生省にとって面倒な障害団体がくると閉じられてしまうのです。
"秘密の隙間"というのもありました。
更生課と隣の課を隔てる壁に、棚でカムフラージュされて部屋の入口からは見えない"隙間"がつくられていたのです。障害者団体が面会を求めて入ってきたとき、課長がそこから隣の課に忍者のように姿を消すことができる、そういう仕掛けです。

 板山さんはシャッターを開け、徹夜もいとわず話に耳を傾けました。丸山一郎さん(現・埼玉県立大学教授)を専門官にスカウトし、「障害者の代弁をするのがキミの役割」と言い含めました。丸山さんは米国の自立生活センターを初めて日本に紹介した人でした。
 10あまりの団体と50回以上話し合った板山さんは、「実態調査は地域での暮らしをバックアッフするためのもの。その証拠に、重度の障害者が地域で暮すための研究会を発足する」と約束し、1980年、研究会が発足したのでした。

アメリカから鉄の肺利用の局長が来日

 1980年は障害者運動にとって、国際的にも大きな節目となった年でした。カナダで開かれたリハビリテーション・インターナショナル(RI)世界会議の席上、「障害の問題をあつかう会議なのだから、障害当事者が各国代表委員の過半数であるべきだと」という動議が出されました。ところが、執行部がこの提案を拒否。障害当事者たちは、障害の種別を超えた国際組織、障害者インターナショナル(DPI)を結成し、RIとタモトをわかちました。

 こうした動きの端緒をつくったエド・ロバーツが来日したのは81年のことでした。この時彼は、カリフォルニア州政府のリハビリテーション局長になっていました。
空港に出迎えた人たちは肝をつぶしました。手も足も動かず、病院で一生を終えるしかない重症患者のように見えたからです。ポリオの後遺症で呼吸も自力では出来ず、夜眠る時は、「鉄の肺」に入らねばなりません。本当に、この人物が、230億円の予算の責任をもち、2500人の部下を指揮している州政府の局長なのだろうか。

写真@:町田ヒューマンネットを立ち上げた当時の樋口恵子さん。 講演が始まると疑いは消え、感動が広がりました。 「慈善から自立へ! 寿命がのび、だれもが障害者になる可能性をもつようになった。障害は人間全体の将来の問題です」
 1歳半でかかったカリエスがもとで障害ある身になった樋口恵子さん(写真@)はいいました。
「当時の私は、人生の損なくじを引いてしまった、と思いこんでいました。講演で、人生が変わりました」
 82年、ミスター・ドーナツが、創業10周年を記念して、障害者リーダーを育てる1年間の海外留学支援事業を始めました。この体験がきっかけで日本にも多くのリーダーが生まれ、自立生活の種をまいてゆきました。奥平真砂子、谷口明弘、安積遊歩、井内ちひろ、平野みどり、石川准、川内美彦、松兼功…。樋口さんもその一人でした。

デンマークでは、法律で保障

写真A:オーフス方式の生みの親クローさんと4人のヘルパー

 北欧でも1980年は自立生活運動の節目にあたる年でした。デンマークでは、筋ジストロフィーのエーバルト・クローさん(写真A)の発案で、ヘルパーを選んで雇用する仕組みが始まっていました。はじめは週40時間だったのですが、80年には週168時間、つまり、1日24時間のヘルパー介助費用が公的に保障されるようになったのです。呼吸困難になったら、その期間2人つけることも可能になりました。
 最重度のクローさんの場合、月収27万円ほどのヘルパー4人を雇用しています。その1人、ヤーンさん(写真右から2人目)の場合、募集条件は、「自動車の運転が上手でヨーロッパ各地を旅行できること、旅行の時、続けて2週間、家をあけられること」。
 自動車整備工の免許をもつヤーンはさんは85倍の競争率を突破して採用されました。写真で一番左のヤスパーさんは音楽大学の出身。クローさんのアマチュアバンド「四輪駆動」ギタリストもつとめます。


 利用者は、日本の人口に換算すると約1万人。内訳は、四肢麻痺21%、筋ジストロフィー19%、脳性マヒ19%、多発性硬化症12%、ポリオ4%。平均利用時間は15−18時間。24時間体制の利用者は全体の3分の1ほどです。

 この制度を利用できるのは、服の着脱、食事、排泄、入浴に介助が必要で、学生生活、職業生活、様々な組織・団体の仕事をしている人です。ヘルパーは、仕事場や学校に同行することになります。
 賃金は市町村と国から半々支払われ、労働条件など一般の労働者と同じ権利が保障されるので、志願者に不足することもありません。介助を受ける側も、日本のようにボランティアが来てくれるかどうかハラハラしたり、卑屈になったり、家族に負い目を感じたりせず、安心して自宅で暮らすことができます。(写真BC)

写真B 写真C ↑レスピレーター(いわゆる人工呼吸器)がなければ死んでしまう筋ジストロフィーでも、結婚し、街中の自分の家で暮らし(写真B)、特製のパソコンを使って仕事ができる(写真C)のは、24時間体制でヘルパーが自立を支援しているから。

 それがデンマークで可能になったのは、76年に施行された生活支援法によって、縦割り制度がなくされ支援サービスが「権利」として確立されていたからです。
このやり方は発祥の地の名前をとって「オーフス方式」と呼ばれています。フィンランドでは、同じ筋ジストロフィーの国会議員、カッレ・キョンキョラさんがオーフス方式を手本にした制度を法制化しました。

臨調・行革路線の『自立・自助』

 話を日本に戻します。研究会の成果は『自立生活への道−全身性障害者の挑戦』『続・自立生活への道』(全国社会福祉協議会)にまとめられ、この分野の"バイブル"になりました。委員長をつとめた仲村優一さん(当時、社会事業大学教授)は、次のように書いています。
 『自立』とは、福祉サービスを受けないですむようになることを意味するものではありません。どんなに重度の障害者であっても、地域で主体的に生きる、自己実現をはかることこそが、ほんとうの自立であるはずです。したがって、サービスを主体的に遠慮なく利用できるようになっていなければなりません。
 『自立』はいわば両刃の剣のような言葉で、使いようによって、まったく逆の使用法が可能になるのです。
国際障害者年以来社会的に承認を得るようになった『自立』の観念と、第二次臨調・行革路線で強調されている『自立・自助』とでは、同じ言葉がまったく反対の意味で使われるという生々しい例を我々は目の当たりにみています。
 介護保険制度での「自立」も、はじめ、仲村さんのいう意味の自立で組み立てられました。それが変質していきました。

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