インフォームド・コンセントの部屋

1.インフォームド・コンセント事始め

 「インフォームド・コンセント」という言葉を知ったのは、30年ほど前のことでした。
 民法の唄孝一教授から「医学記者の目で点検してほしいのだが……」と託された『医事法制学への歩み』の分厚いゲラの中にその言葉はありました。「医事法」という学問領域もなかった時代のことです。
 医師の患者への説明は、当時は、ムンテラと呼ばれていました。それは、医師が決めた治療方針を口で言いくるめる、という意味で使われていました。
 唄さんが日本に紹介したインフォームド・コンセントという概念は、ムンテラと180度違いました。ムンテラでは主役が医師であるのに対して、インフォームド・コンセントの主役はインフォームされた上で判断する患者です。

 唄さんは当時、こう述懐されました。
 「1961年ごろから海外の文献を読み始めたのだけれど、カルチャーショックの連続だった。『アンオーソライズド・トリートメント』、直訳すれば『権威づけられていない治療』という言葉がよく出てきて、それを、『モグリのインチキ療法』と思いこんで読み進んでいくと、実は、『患者が承諾していな治療』のことだと分かってびっくりしてしまった」と。
 インフォームド・コンセントのポイントを唄さんは当時、次のように紹介しています。

・欧米諸国では治療行為の選択、決定に入るに際して患者の承諾が必要である。
・この承諾が意味をもつためには、それが情報を与えられた上での承諾、つまり、インフォームド・コンセントでなければならない。
・これは個人の自己決定権にもとづく、極めて強い権利である。その治療行為によってのみ生命の危険を免れうるというときでさえ、その治療行為を拒否する権利が患者に認められる。
2.知る権利を求め続けた千葉敦子という友人

 インフォームド・コンセントを「知る権利」ととらえる立場を身をもって主張したひとりに千葉敦子がいます。
 彼女は私の高校時代のクラスメートでした。日本離れした強い女性でした。新聞社の経済記者、米国留学、調査会社経営、そして、得意の英語を生かして国際ジャーナリストとして大きく羽ばたこうとしていた矢先の81年に乳がん発見。83年再発。日本での治療が終わるやいなや日本を脱出し、ニューヨークに居を定めました。「患者に真実を告げない日本の医師に愛想を尽かした」のが最大の理由でした。

 84年2度目の再発。
 86年夏、3度目の再発を知った彼女から、こんな手紙が届きました。
 「昨年会えなかった人たちに声をかけていただけないかしら。たぶん、最後の一時帰国になりそうです。脳転移の兆候が現れました」
 嗅覚が無くなってしまっていました。自治医大と上智大で特別講義。米国へ戻る前日激しい頭痛と胸の痛み、呼吸困難に襲われ、救急車で入院。にもかかわらず、「治療は米国で」と成田を発っていきました。「日本の医師は患者の知る権利を尊重しないから」と言って。

 米国に戻ってすぐ、彼女はよく通る声を失いましたが、ささやくような声で取材する方法を編み出しました。手紙を送って取材の趣旨や声のことを告げておき、それから電話を入れ、最小限の質問だけで話してもらう、という方法です。
 筆まめな彼女はしばしば手紙をくれました。たとえば、

 「米国では、医療訴訟が怖いから医師が患者に病名を告げるので、患者のために告げるのではない、などという人がいるけれど、そんな単純な話ではありません。腕があり、良心的な医師は訴訟に悩まされたりしないのですから」
 「アメリカの医師たちが変わったのはなぜ?という貴女の問いにお答えを−−医療ジャーナリズムの興隆、消費者運動、公民権運動、女性解放運動の影響、医学教育の改善が原因だと思います。フェミニズムも公民権運動も、要するに男や白人や生産者の言いなりにならないという思想。『患者が医療側のいいなりにならない』という態度はこれらと重なりながら発展してきたものです」

 彼女と「話す」ために、当時は珍しかったファックスをわが家に入れました。その新品ファックスに飛び込んできた最初の手紙−−

 「引っ越すことに決めました。南向き。彫刻のある美しい建物を毎日眺めることができます。食欲は全くなく、体力はすっかり衰えているので、友達の協力をえて少しづつ引っ越すつもり」

 当時の日本では末期がんの患者が1人でアパートに住むことさえ想像を絶することでした。その上、引っ越しまで計画するとは!
 87年5月2日、緊急入院。病院の枕元の電話から、夜ごと声の報告がとどきました。メモをとれない彼女に代わって私が、彼女が話す入院中の出来事を海をへだてて記録し、ファックスする、そんな不思議な日が続き、退院。そして、7月7日深夜、米国の友人夫妻に連れられて入院。そのときのことを友人はこう書き記しています。

「彼女の望むプライバシーを守ることに私は常に留意してきた。すべての判断を彼女にまかせてていたのはこのためだ。しかし、状態が急な変化を遂げたのに気づかざるを得なかった。彼女は気を失って前のめりに倒れた。一瞬ののち彼女は正気づいたので、あなたは失神したのだと説明し、私はこれから貴女のプライバシーに介入し、貴女に代わって判断するつもりだといった」

 ここに出てくるプライバシーとは、自己決定に近い概念です。入院30時間後、彼女は静かに息を引き取りました。解剖の結果、がんはほとんどの臓器に転移していました。
 生と死を思うままに演出しようとした彼女にとって「真実を知る」ことは不可欠の前提だったのです。そのような人は次第に増えつつあります。

3.病気を知って病気とつきあう

 千葉敦子の死から3年たった90年5月、私は『病気を知って病気とつきあう』というシンポジウムを企画しました。当時はインフォームド・コンセントという言葉を知る人はごくごく少なく、インフォームド・コンセントというタイトルでは、会場ガ、ガラガラになるおそれがありました。そこで、苦心の末に考えついた訳語が『病気を知って病気とつきあう』でした。
 内科医代表は日野原重明さん、精神科医はアルコール依存症の日本におけるパイオニア堀内秀さん(またの名、作家のなだいなださん)、エイズ専門医の根岸昌功さん、当時はまだ無名だった放射線科医の近藤誠さん、小児がんの息子と向き合う父の役を演じて評判だった滝田栄さん、という顔ぶれでした。
 日本では「がん」という病名を隠す時代が長く続いていました。次にやってきたのが、「患者の性格をよく観察し、大丈夫と見極めがついたら告知する」という時代です。これに真っ向から異議を唱える近藤さんが朝日新聞に訪ねてこられたのは、86年のことでした。近藤さんのやり方は徹底していました。

・すべての患者に病名を知らせる。
・患者自身から依頼があったとき「のみ」、家族「にも」知らせる。
 「告知」という言葉も使わない、と近藤さんは言いました。「がんより死亡率が高い病気や苦しい病気が他にいくつもあるのに、がんにだけ『告知』というおどろおどろしい言葉を使うのはおかしい。それに、この言葉には高い立場から知らしめるという尊大な響きがある」というのです。
 確かに、「がん告知」という言葉自体、がんへの恐怖を生み出すのに一役買っています。

 88年、私は朝日新聞のコラムで近藤さんの3年間の実践を紹介し、次のような言葉を引用しました。

「がんと知らせて自殺された方は、1人としていませんでした。自暴自棄に陥ったり、食欲をなくして死期を早めた方もいません。逆に病棟に笑顔が生まれ、患者、家族、医師の風通しが良くなりました。なにより治療成績が向上しました」
「病名を知らせるのは、それが治療の入り口だからです。医師の使命は患者さんと一緒に選んだ治療の実行に最善を尽くすことであって、治療を選ぶ権利は患者さん本人にあるはずです」
4.治すためにこそ、治らないからこそのインフォームド・コンセント

 なだいなださんも、「精神科では、患者さんにいかに病気であることを自覚してもらうかが、治療の出発点です」と話しました。
 「たとえばアルコール中毒(90年当時はそう表現されていました)の患者さんは、自分は飲んべえかもしれないがアル中じゃない、と思いこんでいる。その人に病気であるという自覚をもってもらうことができれば、治療の半分の道のりを過ぎたことになる。患者自身が『アル中は駄目な人間』という差別観をもっていると、『あの連中と一緒にされてはかなわない』という気持になる」と。
 「こつは、医師がか、自分を一段上の人間として『告知する』という態度をとらないこと。本人の話を聞き、自覚が自然に起こるまで待つこと。難しい医者用語を持ち出しての説得は、役に立たないどころか、有害でさえあります」

 リハビリテーション分野でも、患者さんに真実を伝え、自覚してもらえるようになったら一人前なのだそうです。
 若い医師は「歩けるようにはなりません」と、真実をただそのまま話してしまい、患者さんは落ち込んで必要な訓練もしなくなってしまう。
 一方、「無責任な脳外科医や整形外科医」(これは私の表現ではありませんので念のため)は、「リハビリすれば歩けるようになりますよ、など過大な期待をもたせるので、後半生がリハビリ訓練や温泉病院巡りで塗りつぶされる結果を招いてしまう」とリハビリテーション医は嘆きます。
 ところで、「治すためにこそインフォームド・コンセント」を、昨年春に味わうことになりました。会議中の私の携帯電話に80歳の母からこんな連絡が入ったのです。
 「私、がんだったの」
 虎ノ門病院で腎臓に7センチほどのがんがあると診断されたのです。主治医の小松秀樹泌尿器科部長にあとでうかがったところによると、この科では「まずご本人に知らせ、その了承が得られれば、家族にも知らせる」のだそうです。
 「80歳の人にがんと告げたりしてかわいそう」に、という反応を示した人が専門家にも素人にも少なくなかったのですが、わが家の場合、それは素晴らしい結果をもたらしました。
 「入院してチューブにつながれるくらいなら、死んだ方がマシ」というのがオハコだった母が、意外なほどすんなりと手術を承諾しました。
 息子、娘、孫が照れずに「急性親孝行症」「突発性祖母おもい」になることができ、それが母を喜ばせ、元気づけることになりました。
 がんを隠すためにエネルギーを使う必要がありませんでした。そのため、家族や看護婦さんの足が遠のくこともありませんでした。
 この良さは「治らないがん」についても当てはまります。人生の最期を充実させるためにこそのインフォームド・コンセントです。
 友人や家族に囲まれ、思い出の家でそのときを過ごせるように、北欧では訪問看護、往診、ホームヘルプ、有給の看取り休暇が根付いています。
 がんだけではありません。日本でなら「病院のベッドから離れられない重症の神経難病患者」とされる人が、「ひとりの市民」としてふつうの家に住み、恋をし、結婚しています。それぞれ24時間体制でヘルパーがついており、ベンチレーターを常時必要とする男女が結婚生活を送り、、その費用は公的に保障されています。
 このような手厚いサポートのための費用は、高齢者ケアも含めてGDPの2.4%。それが国の経済に悪影響を与えることもなさそうです。デンマークは日本よりずっと景気がよいのですから。

5.連帯のためのインフォームド・コンセント

 行数が尽きそうになっていますが、真実を「知る義務」「知らせる義務」について書き添えたいと思います。
 1つはエイズ専門医の根岸さんの指摘です。
 検査も受けず、人生設計もたてない、『知らない権利だってある』という考えも、あるでしょう。けれど、たとえばエイズの場合、感染から発病まで8年以上は元気で、その間に、まわりの親しい人々に感染を広げてしまいます。検査を受けることが自分自身に直接プラスにならなかったとしても、連帯の観点から『知る義務』があるのではないでしょうか」というのです。
 臨床試験の被験者になる人のインフォームド・コンセントも「連帯」の視点からとらえられるように思います。臨床試験は、被験者本人のためにするというより、将来同じ病気にかかった人に貢献するためのものです。その治療法がほんとうに効果があるのか、リスクがどのくらいあるのか、分からないからこそ人間の身体で実験するのですから。とすれば、被験者と医師は本来は同志です。情報を共有することはごくごく当然ということになります。医師には真実を「知らせる義務」があることになります。効果の不確実性や危険性をぼかして承諾書の形を整えるだけの多くの「治験」は、連帯の精神からかけはなれているとしか言いようないでしょう。

 

 最後に、臨床の達人、日野原さんの助言を付け加えたいと思います。

「真実を伝えることは大切です。ただし、一度に話すのではなく、何度にも分けて話すこと、希望を添えて話すこと」

<ご参考までに>
『乳ガンなんかに負けられない』千葉敦子著(1981文藝春秋、1987文春文庫)
『よく死ぬことはよく生きることだ』千葉敦子著(1987文藝春秋)
『寝たきり老人のいる国いない国』大熊由紀子著(1990ぶどう社)
『クローさんの愉快な苦労話−デンマーク式自立生活はこうして誕生した』片岡豊訳(1994ぶどう社)
『福祉が変わる医療が変わる−日本を変えようとした70の社説+α』大熊由紀子編著(1996ぶどう社)

(「がん患者と対症療法」メディカルレビュー社 2001・Vol.12・No.2特集 真実を伝える )

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