ホスピスケアの部屋



1)ホスピスを離れる

 開業してまだ半年も経っていないのに「在宅医を生きる」なんていうタイトルが、おこがましいことは重々承知なのだが、今の気分はやっぱり在宅医を生きるなのである。
何しろ僕は今後身体の続く限り、病気の種類を問わずに在宅療養中の患者さんを診療する医者として生きることを心に決めたからであり、そのために14年近く身を置いた末期のがん患者さんを専門的にケアするホスピス(緩和ケア病棟)を離れ、2005年10月、東京都小平市でささやかな診療所を開業したからである。

 さらには道幅の狭い住宅地を往診や訪問診療をするために、それまで長年乗っていたお気に入りの普通乗用車に別れをつげ、車椅子の利用者が後部より電動リフトで乗降できる軽のワゴン車に乗り換えたからである。稀かもしれないが車椅子の患者さんを搬送する可能性を考えての決断であった。

 しかし、こんな日々が待ち受けているとは1990年、当時の一般病院におけるがん患者の終末期医療の実情を明らかにし、ホスピスの必要性を訴えた『病院で死ぬということ』を上梓した折にはもちろん想像もしていなかった。

2)忘れていた感覚

 僕の診療所は「ケアタウン小平クリニック」という。診療日には診療開始の1時間前には出勤する。挽きたてのコーヒーを飲みながら、隣接している「ケアタウン小平訪問看護ステーション」のスタッフと、患者さんの問題やその解決を共有するために短時間の話し合いを持ったり、その日訪問予定の患者さんのカルテに目を通したりする。午前10時が診療開始時間である。診療所に来られる方々が、車や電車の朝のラッシュを避けられるように考えた時間なのだ。

 午前は数件の在宅療養を希望する本人やご家族との予約制の相談外来(一件約45分間)の時間にしている。午後1時過ぎには例の往診車に颯爽と飛び乗り、運転席の直下で騒々しく頑張っているエンジン音を体感しながら、各家々を回ることになる。予定している訪問診療もあれば、飛び入りの往診もある。開業したてなのでるが、在宅診療を待っていた方々は多く、すでに1日6,7件の訪問依頼がある。診療所には午後6時ごろには戻ってくるのだが、まだまだ慣れないことも結構あり、一日の終わりは午後8時9時になってしまう。

 それでも地図を見ながら家々を回っているうちに、新しい近道を発見したり、道すがら午後のNHKのラジオ放送(これがけっこう面白い)を聴いたりしていると、なぜか心が弾んでいることに気がつく。それは、施設ホスピスでのケアのあり方に限界を感じはじめたこの5,6年忘れていた感覚でもあった。

3)わき上がってきた疑問

 一般病院での終末期医療に限界を感じ、1991年10月千葉県八日市場市の市民病院から東京都小金井市にある聖ヨハネ会桜町病院ホスピスに転進してからの5,6年は、まさに充実した日々を送っていた。
 ホスピスでは、多忙な一般病院ではなかなか出来なかった、患者さん・ご家族を中心にしたケアが出来たからである。患者さんの身体症状の緩和に専念し、その苦悩に耳を傾けることが出来た。大切な人を亡くそうとしているご家族の思いに寄り添うことが出来た。看護スタッフやボランティアの皆さんと等と同じ思いの基にチームケアが出来た。

 とくにこのボランティアの皆さんとの協働体験は、問題意識とその解決のための理念が共有できれば、わが国でも専門家とボランティアとの継続した協働が可能であることを確信させてくれた。このことはホスピスケアに参加して学ぶことの出来た最大の収穫の一つといっても過言ではない。
 今では行政でも政治でも解決困難な問題の幾つかは専門家とボランティアの協働を前提にしたホスピスケアの普遍化で解決できるのではないかとさえ考えている。

 しかし、心満ちるホスピスの日々を送る僕の心の中に、「このままで良いのか」という疑問が湧き上がってきたのは、逆説的に聞こえるかも知れないが、ホスピスケアに参加するようになってから、6、7年目、それはホスピスケアのケアとしての普遍性を確信じ始めた頃でもあった。

4)生きるのが一番つらい時期

 ホスピスでは小さな折り畳み椅子を小脇に抱え、回診していた。ベッドサイドでその椅子に座り、患者さんの話に耳を傾ける。穏やかに笑みを交えながら話していた患者さんが、突然のように顔をゆがめ涙ぐみ、「先生、もう限界。早く楽にして」と言うことがある。
 患者さんたちは、苦痛症状が緩和され、一見自分のペースで、その人らしく過ごしているように見えている時でも、様々な心身の困難に直面し、心の中は揺れている。そして、ある日堰を切ったように思いを爆発させるのである。

 治癒が難しいがんの末期状態と分かってから患者さんやご家族が直面する問題は様々であるが、患者さんたちにとって生きることが一番つらい時期は、いつなのであろうか。

 千人を超える末期のがん患者さんの道程に同行した経験から言えば、僕には、死までの数週間の時期が一番つらい時期のように思える。この時期、殆どの患者さんは入浴、食事、排泄などの日常生活が自力では困難になる。結果として出現する身体的・精神的苦痛は絶望的なほどに深いことが多く、それまでなんとか意味を見出しながら日々を過ごしていた人々が、もうこれ以上生きる意味はないと感じ始め、そのことを周囲に訴え始めるからである。患者さんの状態を見ていれば、その訴えは痛いほど共感できる。苦痛症状の緩和は当然のこととして、ホスピスケアが本当の意味で問われるのはこの時期なのだと僕は考えている。

5)我々に出来ること

 前回、治癒することが難しい末期がんになってしまった場合、病状が進み、自力だけでは日常生活が困難な状態なってくると、たとえ痛みが解決されていたとしても、「もう生きる意味が見えない」と訴える患者さんは少なくないと報告した。もはや自分が尊厳のある自立(自律)した存在ではないと感じることが生きる意味を喪失させるのだ。

 我々にはその患者さんの身体的苦痛を和らげることは出来ても、残念ながら病状が進行した結果の身体状況を改善することは出来ない。しかし、我々は、その変更不可能な状況で、生きる意味がないと嘆き悲しむその方に、寄り添い共感することは出来る。その悲痛な訴えに心から耳を傾けることも出来る。その方の人生を共に振り返ることも出来る。その方と共に迫りくる死や死後の世界を語り合うことも出来る。死までの道程の苦痛緩和を約束することも出来る。その方のために祈ることも出来る。そして、その方がもはや生きる意味が無いと追い詰められることになった困難な日常生活を丁寧に誠実にケアすることも出来るのである。

 そのような交流の後に、こんな状態ではもう生きる意味が無いと嘆くのではなく、その都度のケアにありがとうと微笑むようになる人々に出会うのである。絶望的とも思える状態の中に、その時を生きる意味を見出すのだ。自立は困難でも、自律した尊厳のある存在であることを周囲との交流の中で再確認出来るからなのだと思う。

6)ホスピスケアはだれのため

 ホスピスケア(緩和ケア)とは何かと問われれば、僕は「様々な職種の専門家やボランティアがチームを組み、自力だけでは自立(自律)することや、自分の尊厳を守ることが難しくなってしまった人々の、自立(自律)を支え、尊厳を守り、共に生きること」と言いたい。
 それらケアの過程で多くの方が身体の自立は困難でも心の自立である自律を回復する。さらには自律を回復した人々は、その後の生の長短によらずに、人間としての尊厳を回復し、ひどいと思える身体状況の中でも、その時を生きる意味を見出すようになる。そのことを僕は何度となく、見せつけられ、教えられてきた。

 ところで、末期のがん患者さんたちが、たとえ適切な苦痛症状の緩和ケアを受けていたとしても、自立(自律)や尊厳の危機に直面するのは、身体の衰弱によって、それまで出来ていた日常生活(特に排泄の問題は大きい)が自力だけでは出来なくなってしまうからであることは先述してきた通りである。

 それでは、それらは末期のがん患者さんに特有なことなのであろうか。否であろう。自力による自立や自律が困難な状況では、がんであろうがなかろうが、死が近かろうが、遠かろうが、人間としての尊厳が失われたと感じ、生きる意味を見出すことが困難になるのである。このことに気づき始めてから、僕は主に末期のがん患者さんだけにホスピスケアを提供している現在のホスピスのあり方に疑問を感じ始めたのだ。

7)1年間の休職

 ホスピスでは季節の行事が多い。花見の季節には自力では何も出来なくなってしまった人も、寝台のまま公園に行き、降りかかる花びらを楽しみ、一口の酒に酔う。適切なホスピスケアがあれば、その人は何も出来なくなってしまった人なのではなく、尊厳を感じ、人生を楽しむことが出来る人になり得るのである。

 ところで、わが国のホスピス(緩和ケア病棟)でケアを受けることの出来る人は、医療保険の制度上、主にがんやエイズの末期患者と制限されている。僕はそれらが制度、施設、人材の未整備など、わが国の現状では止むを得ないことであることも知っている。しかし、ホスピスへ転進後の7,8年目、ホスピスケアのケアとしての普遍性を知れば、知るほど、殆ど末期がんの患者さんだけを対象にせざるを得ないホスピスで、そのケアに取り組み続けることが僕には苦しくなっていた。ホスピス現場での日々のケアには十分な意義を感じつつも、心は重い日が続くようになっていたのだ。

 僕はどうすればよいのだろう。そのことが常に脳裏の一部に住みつくようになっていた。やがてホスピスでの仕事が10年経過したら、とにもかくにも一旦現場を離れてみようと考えるようになった。そしてホスピス赴任後10年、病院の管理者や現場スタッフの暖かい理解のもとに1年間の休職が決定した。復職後どう歩むか、具体的な道は未だ見えなかったが、心は急速に軽くなっていた。

8)盛りだくさんの計画

 2001年10月から1年間に渡るホスピス休職が決まった後、僕は浮き立つ心で、夏休みを控えた少年のように様々な行動計画を立ててみた。夏休みの計画がその通りになったことなど一度もなかったことを思い出しながらも、新しい道を探る1年なのだ、だらだらと過ごすことは出来ない、そう思っていた。気負いすぎてしまうほど、若くはないと自認しながらも、立てた計画には気負いが満ち満ちていた。それでもGO!だ。突き進むべし。僕は計画の推進を決定した。

 最初の6ヶ月は、この数十年の間に何回となく挫折し、もう見切りをつけたはずの英会話への挑戦であった。時間はたっぷりある。お金もかけよう。何冊かの英会話攻略本を読破後、僕は6ヶ月間の英会話克服計画を立てた。実行可能な計画であると確信していた。
 そして、残りの4、5ヶ月、綿密な計画の下に獲得した英会話力を前提に世界を回ってみようと考えた。そのうち2、3ヶ月間はアジアのホスピスを訪ねてみよう。シンガポールのようにホスピスケアがかなり行渡っていると言われている国もあり、ベトナムのように取り組み始めたばかりの国もある。この目で実情を見てみようと考えた。
 その後は休職の数年前から関心を持ち始めた福祉行政の世界的な先進国である北欧の国々へも行ってみよう。そして最後の1,2ヶ月、それらの成果をもとに、次なる道を探してみよう。僕の計画は以上のようなものだった。

9)腹にこたえた問いかけ

 休職期間中の僕の年間行動計画に北欧の福祉事情視察を入れたのには訳がある。末期のがん患者さんが必要としているホスピスケアは、自立(自律)と尊厳の危機に瀕している全ての人々にも共通して必要なケアであると気づき始め、事実上末期のがん患者さんだけをケアの対象にせざるを得ない現状のホスピス(緩和ケア病棟)での仕事に疑問を持ち始めた頃、本紙の論説委員でもあったジャーナリスト、大熊由紀子さんの講演を日本死の臨床研究会関東支部大会で聞いたからである。

 その時大熊さんはわが国の寝たきり老人は貧困な福祉行政の産物であると断言し、認知症老人などの自立や尊厳を徹底して守るデンマークに寝たきり老人はいないとスライドを交えながら話してくれた。そして最後に我々聴衆に向かい「ホスピスケアに精力的に取り組んでいる皆さんは何故がんの患者さんにだけを目を向けているのですか」と柔和に問いかけてきた。腹にドスンと来る問いかけであった。

 このとき以来、「自立(自律)と尊厳を守る」はホスピスケアと先進的な福祉の取り組みの共通のキーワードであることに気がついた。そして漠然とであるが、福祉の取り組みに目を向けることで、道に迷い始めた僕が進むべき次なる道が見えるかもしれないと考えるようになっていた。休職によって今まで以上に福祉の世界にも近づけるのだ。僕の年間計画の仕上げが北欧の福祉事情視察であったのは、必然であった。

10)日本一の福祉自治体

 僕の休職中の年間計画が上手くいったかどうかは聞かぬが武士の情けと言うものだろう。特に英会話克服計画については知らなかったことにして欲しい。一年の殆どが計画倒れの夏休みのようでもあった。
 それでも、従来のホスピスの限界を乗り越え、地域の中で普遍化されたホスピスケアに取り組むため、僕が在宅医として生きることを決めることになったヒントは十分に得たのだから、休職自体は成功だったと思っている。

 福祉の取り組みに目を向けることで、次なる道が見えるかもしれないとの僕の考えは、正解だった。2002年6月、僕はジャーナリスト大熊由紀子さんの示唆を受け、秋田県鷹巣町(現北秋田市)で開かれた福祉塾なるものに参加した。そしてデンマークの福祉をお手本に取り組んでいる福祉の実情を垣間見ることになった。当時日本一の福祉自治体として知られ、多くの来訪者を迎えていた鷹巣町では、たとえば認知症の方の自立と尊厳を徹底して守り、たとえそうなってしまったとしても安心して暮らせる街づくりに着手していた。まさに多くの自治体のお手本になるべきものだった。
 見学させていただいた「ケアタウンたかのす」という複合施設の中にある老人保健施設では認知症の高齢者が活き活きと暮らしていた。またそこで働くスタッフも若々しく笑顔と誇りに満ち、輝いていた。確かにここでは自立と尊厳を守るという理念が実践されていた。

11)福祉とホスピスケアの融合

 秋田県鷹巣町の優れた複合福祉施設「ケアタウンたかのす」を見学したさいに、案内してくれたスタッフに「ところでこのケアタウンの利用者が末期のがんになってしまったらどうするのですか」と尋ねてみた。答えは「残念ながら一般の病院に入院していただきます」というものだった。せっかく自立と尊厳を守られてきた認知症高齢者も末期のがんになると、不十分な終末期医療しか提供できない一般病院に入院せざるを得ないのである。

 ここで僕が考えたことは、この「ケアタウンたかのす」に我々のホスピスが参加したら、入居者はがんになってもここを出ることはない。ここを終の棲家に出来るということだった。
 そう、その方々の自立と尊厳を目指し、「寝たきり老人を作らない、また昼夜を問わずに徘徊する人をベッド上に縛り付けて拘束するようなことはしない」と誓う鷹巣町の人間的で先進的な福祉と、末期がん医療の中で育ってきた普遍的なケアの形態であるホスピスケアが融合すれば、それは可能になるのだ。鷹巣町に滞在した3日の間に僕はそのことを確信し始めた。

 この「ケアタウンたかのす」を作り出した鷹巣町が首長も行政も町民も一体でモデルにしたというデンマークに行ってみたい。そこで現在では世界一と大熊由紀子さんが絶賛する福祉の実情をこの目で見、この耳で(通訳を通してであるが)聞き、全身で体感したいという思いは日一日と強くなった。

12)訪問距離のジレンマ

 福祉の複合施設「ケアタウンたかのす」を視察した際に得られたもう一つのヒントも大きなものだった。それは同施設の敷地内にあった町内で住む1人暮らしの高齢者を対象にしたアパートの存在である。各部屋はアパートなのだから当然なのであるが、鍵のかかる独立したものであり、車椅子でも使用可能なシャワー、トイレが設置され、病気や障害を持っていても暮らしやすいように工夫されていた。また一歩外にでれば、共同で利用できる浴室や食堂があった。プライバシーは完全に守られる一方で、他者との交流が出来る広場のような空間があったのだ。

 このアパートを見たとき思わず僕はこれだと思った。なぜなら、僕はホスピスでのケアに取り組む一方、細々と在宅での療養を望む末期がんの患者さん宅を訪問していたのだが、大きなジレンマを抱えていたからだ。そして、先述したアパートはそのジレンマを解決してくれると思えたのだ。
 僕の直面していたジレンマは、在宅ケアの宿命である訪問距離の問題であった。在宅ケアの期待には応えたい。しかし、各地に散在する患者さん宅を訪問することは、それなりに時間を要することであった。渋滞した路上や開かずの踏み切りの前で、いつも考えていたことは、皆さんホスピスの近くに引っ越してきてくれないかな、ということであったのだ。そのジレンマへの解答が目の前にあった。

13)高揚する思いの中で

 2002年5月から8月にかけてシンガポール、マレーシア、ベトナムなどにある幾つかのホスピスを1人で訪問した。計画からは程遠い英会話力で、冷や汗をかきながらの訪問であった。

 9月には、幸いにも、福祉の世界に目を向けることを促してくださったジャーナリスト、大熊由紀子さんと共にデンマークを訪問することができた。今回は自ら現地の福祉にも携わっている在デンマークの片岡豊さんに通訳をお願いした。わずか10日ほどの滞在であったが世界一の福祉国家といわれるデンマークでの学びも大きかった。
 そこで実感したことは、地方分権とその税金の使われ方のまっとうさであった。日本に比べれば目をむくほどの税金であったが、福祉に関連するそれらは、自分の身近な地域の中で、認知症でも重度の障害を持っていても自立と尊厳は確かに守られる、ということが誰の目にも明らかな形で使われていた。高くとも納得のできる税金なのだ。

 デンマークを離れる日の前夜、僕はオーフス市のホテルの部屋で休職中の1年間を振り返りながら、窓の外が朝焼けで照り映えるまで異国の夜の空を眺めていた。「ケアタウンたかのす」で得た確信やヒント、アジアの国々に広がるホスピスケア、デンマークで垣間見えた税や国のあり方、それらを通して、帰国後、僕が取り組むべき課題が次から次と目の前に浮かんできて、一睡も出来なかったのだ。僕は高揚する思いの中で幸せを感じていた。

14)動き始めた構想
 2002年10月、僕はホスピス現場に復帰した。僕が不在の一年間、ホスピスチームは何事もなかったかのように、しっかりと機能していた。つまり、僕は憂いなく次なる道を進むことができるのだ。
 とりあえずホスピスの日常に戻りつつも、僕は一年間の成果を「ホスピスケアからコミュニティケアへ―調和の取れた福祉と医療が作り出す安心高齢社会の都市型ケアタウンモデル事業」なる論文としてまとめた。それはケアの対象をがんの患者さん以外にも広げた、「より普遍化されたホスピスケア」と「在宅ケア」をキーワードにしたものであった。
 論文の中で僕は最後まで自宅で過ごしたいと望む人々の思いに応えるべく、地域の中で取り組み可能なケアのあり方を提案した。もちろん1人暮らしの高齢者を対象にしたアパートも構想に含まれていた。
 それをホスピスでコーディネーターをしている長谷方人氏に読んでもらった。共に10年以上ホスピスケアに携わり同士と認め合ってきた友人でもある。本気で賛同してくれた彼は、2002年の暮れ、構想実現のために「暁記念交流基金」なる有限会社立ち上げた。がんで亡くなった彼の父親の名前を冠にした社名である。そして2003年の春、10年以上参加していたホスピスを離れついに行動を開始した。
 色々探した結果、彼の会社は東京都小平市の緑豊かな住宅地に土地を求めることになった。この時から我々の構想は動き始めたのだ。
15)自宅で暮らし続けるモデル

 「ケアタウン小平」構想を通して僕らが目指そうとしたことは、やがて1人暮らしを余儀なくされる高齢者が、病や障害を持っていたとしても、地域の中の自宅で暮らし続けられるモデルを作りたいということであった。

 そのために、まずは在宅ケアを望んでいる高齢1人暮らしの人が自宅として住める空間を確保すること。そこは、入退去自由であることや、家を確保するための大きなお金を必要としないことなどを考え、「ケアタウンたかのす」のように賃貸アパートであることが相応しいと考えた。家賃さえ払っていれば、原則入居期間の制限はない。年齢の制限もない。疾患や障害の種類も問わないのである。
 つまり、「家」であることによって、病院や福祉施設が持つ入院期間や年齢の制限を乗り越え、そして僕が悩んでいたホスピスの限界すなわち主に末期のがんだけがケアの対象という限界も乗り越えられるのである。

 次にはその家に住み続けることを支える機能の確保である。つまりは24時間訪問可能な医療、看護、介護事業の確保。そしてまた、孤立した自由だけではなく様々な人と一定の時を共にすることが出来るデイサービスの確保。以上が「ケアタウン小平」構想の基本概念であった。この時点で僕は僕自身が24時間対応可能な往診や訪問を専門にした診療所を開設し、直接的に「ケアタウン小平」構想を担いたいと考えるようになったのだ。

16)チームケアを実践するために

 今なお清流を保ち、両岸を緑豊かな木々で覆われた玉川上水から歩いて3分、その世界では著名なゴルフ場小金井カントリー倶楽部と隣り合わせた住宅地、小平市御幸町の一角に、周囲の緑になじむ3階建ての「ケアタウン小平」がある。1階には訪問診療や往診を専門とした僕のクリニック、隣接して非営利特定法人(NPO)「コミュニティケアリンク東京」が運営する訪問看護ステーション、デイサービスセンター、食事サービスが、そして株式会社ダスキンゼロケアが運営する訪問介護ステーションがある。在宅ケアを支える基本的な機能がまさに壁一つ隔てただけで集約されているのだ。

 ホスピスケアの基本であるチームケアを真の意味で実践するためには、チームはいつでも直に顔を合わせ、言葉を交わすことが出来る距離に存在することが望ましいからである。それはまさにホスピスケアの体験を通して得た実感であり、実現したかったチームの形でもあった。そして2階、3階にはこの建物全体の管理・運営を担う有限会社「暁記念交流基金」が運営する21戸のアパート「いっぷく荘」がある。約10畳のワンルームが基本で車椅子可能なシャワー、トイレがあり、床暖房、火災時に類焼を防ぐスプリンクラー付のバリアフリー空間である。一方、自宅故に、一人で暮らす際に生じる問題にも直面する。自己責任の世界ではあるが、今後の課題である。ちなみに1階の全ての事業体も賃貸入居である。

17)NPO法人の船出

 長谷氏と僕はしばしば酒を酌み交わしながら夜遅くまで「ケアタウン小平」について論じ合った。たとえば末期がん以外の人々もケアの対象とした「より普遍化されたホスピスケア」と「在宅ケア」の提供を基本理念とした医療と福祉と住居の複合施設「ケアタウン小平」を誰がどのように担うのか等である。

 なかでも当初から一致していたことは、ボランティアの存在は欠かせない、ということであった。なぜなら、理念を共有できるボランティアの存在は、制度によるサービスのはざ間を埋め、ケアを豊かで、開放的、かつ透明なものにすると確信していたからだ。それではボランティアが参加可能な事業体は何かとなった時,僕たちは非営利で事業を行うNPO法人が相応しいと考えた。

 その後曲折はあったが、多くの人々の協力の下に、2005年7月1日デイサービス、訪問看護ステーション、食事サービス、ボランティア育成、子育て支援などを事業目的にした「コミュニティケアリンク東京」なるNPO法人を船出させることができた。「ケアタウン小平」の中核となる事業体である。ちなみにスタート時の常勤スタッフ8名中、ホスピスケアの経験を積んだ看護師をデイサービスに2名、訪問看護ステーションに3名配置した。在宅ケアでの看護師の役割は最も重要なものの一つであり、この事業のスタートを、ホスピス理念を体現出来る人々に担って欲しかったからである。

18)誇りを持ったプロとして

 空が高くなり、その真っ青な空に、真一文字の飛行機雲が似合うようになった、2005年10月初め、「ケアタウン小平」チームを構成する各事業体は、3ヶ月の準備期間を経た後、いっせいに活動を開始した。賃貸アパート「いっぷく荘」はもとより、近隣の在宅療養中の人々からの期待も大きかった。

 僕のクリニックの電話が鳴り響く。常勤3名、非常勤1名の「訪問看護ステーション」も末期のがんをはじめどのような疾患にも応じようと、はつらつと訪問依頼の電話に対応している。「デイサービスセンター」も意気軒昂である。我々は末期のがんだったり、呼吸のための気管チューブや栄養補給のために胃に直接チューブが入っているなどして、あるいは、介護度が重いために従来のデイサービスを利用することが困難であった人々のお役に立ちたいと考えていた。常勤4名、非常勤5名のスタッフは顔を輝かせ、声を弾ませながらデイサービスのご利用者の応対をしている。食事サービス部門も腕によりをかけ頑張っている。訪問介護を担うダスキンゼロケアの皆さんも理念を共有できる仲間である。みんな誇りを持ったプロの仕事をしている。さらには欠かせぬチームメンバーであるボランティアの皆さんも総勢35名が、一定の研修の後に、デイサービスや食事サービスで淡々と活動している。NPO法人の理事長を任された僕は、そんなみんなの姿を見ているとうれしくて胸が熱くなるのである。

19)医療現場の影を光に

 「ケアタウン小平」の一角を担う僕のクリニックには地域の中で在宅療養を望む様々な相談が舞い込んでくる。

 ある日、数年前から、深夜になると、突如、大騒ぎをしながら意味不明な行動をとるようになったため、病院で認知症による夜間せん妄と診断された高齢の親を持つご家族から相談があった。今まで、何回も様々な介護施設に入所するのだが、どこでも夜間せん妄を起こすため、ベッド上に拘束されたり、退所を迫られたりの繰り返しだった。そして家に帰ってくるたび、本人はもう入所はしたくないと泣いて訴える。ついに、ご家族は、今後は何があっても家で看ようと決心した。ついては一度往診してもらえないかというものであった。
 初めての往診時、その方は夜間せん妄など信じられないほど普通に話をしてくれた。そして、夜のことは覚えていないのだと顔をゆがめた。僕は色々な話を聴いているうちに、夜間の行動が数年前からその方が常用していた睡眠剤の服用後一時間程で起きることに気がついた。そこで、その日から睡眠剤なしで頑張ってもらうことにした。そして、その夜から何も起こらなくなった。睡眠剤の副作用だったのだ。その方とご家族の苦闘の数年間は何だったのだろう。

 かくしてゆったりとした在宅診療は多忙な医療現場の影をあぶりだす。同時にその影を穏やかな光に変換できることもある。在宅医になってあらためて見えてきたわが国医療の現実である。

20)安心社会を目指して

 医療と福祉のより良き融合を目指し、24時間の「在宅ケア」と「末期がんに限らないホスピスケア」をキーワードに取り組み始めた「ケアタウン小平」チームは、行政や地元医師会とも協力しながら、地域に根ざしつつある。
 そしてチームは今や「いっぷく荘」のみならず、広く周辺地域の在宅ケアを支えている。チームが隣り合って存在することにより、患者さんに関する情報を直接、随時、共有できる。そのため、医療や看護や介護の連携がスムーズになり、患者さんを中心にしたケアの継続性が保ちやすいのだ。この情報の共有しやすさのおかげで、在宅ケアの重要性と、その往診距離の間で感じていた以前の僕のジレンマが今はほとんど無くなっている。

 ところで我々は約5ヶ月で12人の方を、まさにその方の住みなれた家で、ご家族と共にお見送りすることが出来た。
 生老病死は人の常である。人生のどの時期にも不安や苦悩はあるだろう。我々は自分の力だけでは、自分の尊厳や自立を守ることが難しくなった方々の力になり、たとえ寝たきりになり、自分のことができなくなってしまったとしても、自分の望む場所で、自律を保ち、尊厳を感じながら生き、死ぬことの出来る地域社会を創設したいと願う。そのことが出なければ真の意味での安心社会にはならないと思うからだ。

 さあ、今日も軽の往診車に飛び乗り町中に飛び出そう。在宅で患者さんやご家族が待っている。

(朝日新聞2月27日から3月25日)

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