ホスピスケアの部屋

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■病院で死ぬということ■

 愛する人に囲まれ,自宅で安らかに人生を閉じることができたら,どんなに幸せなことでしょう。
 祖父はそうでした。けれどそれは、ごくごくまれな幸運に恵まれたからでした。そんな特別な条件がなくても、だれもがそのようにして人生の最期を迎えられる、そんな社会の実現に挑戦している国があります。
 そのひとつ、デンマークを2002年秋に訪ねました。

 旅にはこのうえない道連れがいました。聖ヨハネ会桜町病院ホスピス科部長の山崎章郎さん。100万部のベストセラーになった著書『病院で死ぬということ』で社会に大きな波紋を投げかけた方です。
 この本の反響がどんなに大きかったか,1990年当時の『朝日新聞』から抜粋してみます。

「1人の医師が書いた本が,いま,深い感動を与えながら読者の輪を広げている。いまのままの病院であるならば,人間が死んでゆく場所としてはふさわしくない,と山崎さんはいう。この本を病院の仕事の合間に2年かけて書いた。」

 気管切開され,鎮静剤を与えられ,人間としての意志を発することなく死んでいった『ある男の死』,自分の力が発揮できるうちは患者に対して誠実であった主治医が,その力の及ばぬところとなると,その患者を痛みだけを訴えるめんどうな存在としてしまう『シベリア』……。病院の現実に疑問を抱き,道が見えないままに南極海の調査船に船医として乗り込んだ山崎さんの運命を変えたのは,偶然もちこんだキューブラ・ロスの著書『死ぬ瞬間』に描かれたある農夫の死の場面でした。鎮痛剤の代わりに彼の好きな一杯のブドー酒,輸血の代わりに家で作ったスープ……。

 ひとはこういう風に家で死んでいくことだってできるんだと「鳥肌がたつほど感動した」山崎さんは,著書を「ホスピスケアへの僕の願い13箇条」で締めくくりました。
抜粋してみます。
・ホスピスはホスピスを自ら望む末期患者,特に末期ガン患者と家族を応援する施設であり,応援するプログラムである。
・ホスピスの個室では,愛する人とともに同じベッドにいたとしても誰も非難しないだろう。
・最期まで住み慣れた自宅にいたいと望めばそれも十分可能となるだろう。

 さいわい、「緩和ケア病棟入院料」が新設されました。けれど,「病院経営上の戦略としての緩和ケア病棟」を計画する病院が増えるにつれて,山崎さんは,「これはホスピスではない。ホスピスは,病棟ではない」と、もどかしい気持ちを抱くようになりました。そして,インスピレーションをデンマークに求めたのです。

■死の迎え方-4つの時期■

 日本での死の迎え方は、4つの時期に分けられるように思います。
 第1期は、「死」が、身近なもの、見えるものだった時代。縄文の時代から終戦直後までがそうです。幼い子どもたちを含め、みんなで看取る、野辺の送りをする。ごく自然に「死への準備教育」が行われました。残された人々も「できるだけのことはした」と満ち足りた気持をもてました。
 それが可能だった最大の理由は、医学・医療が未発達だったために、寝ついている期間が短く、あたたかな気持が壊れないうちに死が訪れたことです。

 第2期は、人々が病院を頼りにするようになった時代です。半身不随や痴呆症になって何年も生きられるようになるにつれ、「看病」は何年も続く「介護」に変わりました。にもかかわらず、現実にうとい行政官や政治家は1979年、「日本型福祉」の政策を打ち出しました。「嫁」の24時間、365日の無給介護に頼り、福祉予算を節約する政策です。
 疲れはて、愛情が枯れそうな家族の「救い主」として登場したのが、日本独特の「老人病院」と精神病院の痴呆病棟でした。医療水準の低い雑居の病室での「誇りをはぎ取られた死」が日常化し、日本独特の「寝たきり老人」が大量生産されました。福祉予算を節約したツケは、医療費の増大をも招きました。
 がんのような病気も例外ではありませんでした。医師も看護婦も家族までも心電図モニターの波形を見つめている臨終の場面。波が平らになったときが死。そんな風景も日常的になってゆきました。

 そんな現状にがまんできず、メスを捨てて未知の世界に飛び込んだ山崎さんの訴え,聖隷三方原病院、淀川キリスト教病院,救世軍清瀬病院などのパイオニアの赤字覚悟の実践が認められ,緩和ケア病棟入院料が新設されました。
 ホスピスや緩和ケア病棟が安らかな死を実現する解決策と思われた時期、それが「第3期」です。ところが、赤字が黒字になり、「病院経営の戦略としての緩和ケア病棟」を計画する病院が増えるにつれて、パイオニアたちは、求めていたものとは違うと考えるようになりました。

■訪問ナース・家庭医・パリアティブケアチームの連携で■

写真1−1

 この秋訪ねたデンマークでは、様子がまるで違いました。
 この国には日本のゴールドプランや介護保険より20年以上早く始まったホームヘルプや訪問看護の仕組みがあります。これを基盤に,ターミナル期には訪問ナースが24時間体制で滞在してくれる制度が生まれました。写真1の真ん中の女性は,夜勤専門のナースです。夜勤は時間あたりの報酬が高く、幼い子どもと昼を一緒に過ごせるので人気のある仕事なのだそうです。

写真1−2

 国民すべてが自分の選んだ家庭医をもつというこの国独特の制度も威力を発揮します。ナースの写真の右側に写っている女医さんは,「ターミナル期の患者さんには,『いつでも電話をどうぞ』とプライベートな電話も知らせています」といいました。家庭医は病院の部長級の尊敬を受けるプライマリーケアの専門医で、平均1600人の患者を受け持っています。
 自宅が狭かったり,病状や症状が複雑だったり重かったりする場合は,訪問ナースの拠点に近いケアつき住宅に引っ越してくることもできます。さらに難しい問題を抱えた人には,10人規模のこじんまりしたホスピスが控えています。

 3年前から威力を発揮し始めたのがパリアティブ(緩和治療)チームでした。拠点は基幹総合病院にあり,病院の各科の専門家と連携をとって治療の橋渡しをする一方,家庭医をバックアップし,症状が難しいときは積極的に往診するのです。
 写真2には麻酔科出身で疼痛治療の名人である男性医師と、ホスピスケアの老舗イギリスで修業してきた女性の内科医が写っていますが,ナースや牧師,心理士,理学療法士,ソーシャルワーカー計10人でチームを組んでいるのが特徴です。
 たがいにファーストネームで呼びあう息のあった対等の間柄が印象的でした。

■看取り寄り添い休暇も■

 1990年には「看取り寄り添い休暇法」が成立しました。親しい人とのかけがえのない時間をともにするための有給休暇です。条件は,死を迎えるご本人の指名があることです。
 オーフス市が2年前に調査したところ、ターミナル期の人の85%が自宅で過ごしていました。8割の人が病院で死を迎える日本に比べると驚異的な数字ですが、「市民の願いにはまだ遠いのです」と関係者は口々にいい、挑戦は続いています。
 だれもが自分らしく、望む場所で、安らかに、愛する人との別れのときを過ごせる。私の願う第4の時代です。

 旅を終え帰宅した山崎さんから、こんなメールが届きました。
「デンマークの旅は、もやの中にいきなり扉が開き、光に満ちた世界が見えてきたような気持ちすら感じました。オーフスのホテルで深夜に目覚め、次から次と脳裏に湧き上がってくる新しい取りくみのアイデアに高揚し、そのまま朝を迎えたことが何日もありました。南極海の船の上でキューブラ・ロスの文章に出会って道が開けたときのように」 (医歯薬出版刊「歯界展望」2002年11月号に加筆)

(山崎章郎さん執筆の『ホスピスの流れを変えよう!』と私との対談『「死」から「生」を照らす−コミュニティーケアをめぐって−』が、月刊『論座』2003年1月号に掲載されています)


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