学生・院生のレポートを読んでの臼井さんのお手紙
臼井久実子さん

ソーシャルサービス論 「福祉と医療の人間科学」講座受講のみなさまへ

臼井久実子
02/06/08

 5月29日の受講レポートを拝見しました。ほとんどの人がパソコン要約筆記についてふれられていました。留学している人などが、パソコン要約筆記の字幕があって授業が分かりやすかったと言われていて、そのように役立ったことが私も嬉しかったです。
 アメリカ合衆国では一般のテレビ放送の9割に字幕がありますが、それは移民や英語を母語としない市民がたくさんいる事も大きな背景です。日本でも字幕を潜在的に必要としている人は聴覚障害者以外にも多いと思います。今はまだ放送番組も少ないですし、パソコン要約筆記の普及もこれからの課題ですが、もっと広げていきたいと考えています。工学部出身の人から、自分たちの知識や技術を還元できる分野だという声もあり、いろいろな人の智恵を結集できればよいと思います。

 聴覚障害者人口についてご質問をいただきました。少し調べてみると、聴覚障害者団体の人が書いた文章では、総人口の5%=日本にあてはめると約600万人とされています。日本では「障害者手帳」をもつ人が障害者だということになっていますが、手帳制度は、対象となる聴力損失レベルを高く設定しており、実際に社会生活上に支障がある聴力状況であってもこのラインに届かないために、手帳を持たない(または、持てない)人が多いです。障害者手帳所持者だけに限ると、聴覚・言語障害者は約35万人(厚生労働省・1996年身体障害者実態調査)です。

 「欠格条項は英語で何というのかな?」とご質問がありました。
 disqualifying clauses on disability と英訳しています。
 あるカテゴリーに属する人々を法律で欠格と決めて排除する概念がない国の人には、「何,それ!!」と言われていつも説明に四苦八苦しています。「日本はいつまでそんなものを放置しているのですか!」と怒られたこともありました。それほど特殊な国に暮らしていることを知らされましたが、少しでも国や言葉の壁を越えてコミュニケーションできればと、『Q&A障害者の欠格条項』の最後には、目次一覧、執筆者や監修者、会の紹介などの英訳をつけています。この英訳は、『哀れみはいらない――全米障害者運動の軌跡』(現代書館)の訳者、秋山愛子さんに担当していただきました。『哀れみはいらない』は読み出せば止まらないこと請け合いの本で、機会あればご覧になってみてください。

 「聴覚障害をもつ子どものお母さんが神経質になっているのに出会った。お母さんになにか助言できることは」、という趣旨のご質問がありました。一般的ですが、「子ども自身にも、まわりの人にも、障害があることを隠さない」「障害があるからといって、子どもの世界を狭めない」「情報、言葉のチャンネルを豊かにもつ」ということは言えると思います。
 もし親や大人たちが隠すと、障害は何か悪いことで、自分は悪い存在と、子ども心にも思います。
 障害がある人は、むしろ障害がない人以上に、自分でいろいろな経験を、時間もかけてしていくことが重要と思っています。そのようなチャンスをたくさん持つことができ、そのときにもしサポートが必要ならば適切なサポートが得られるかどうかで、経験と視野とが大きく変わってきますし、失敗もしながら自信をつけていけます。

 聴覚障害がある人は音楽を楽しめますか、というご質問がありました。何人かの知人を思い浮かべると、それぞれに楽しんでいます。
 私の場合は高音域が聞こえず、かつ、聴力が少し残っている片耳で聞くので、聞こえる人の聞こえ方とは異なりますが、コンサート、ライブが大好きです。演奏者どうしが、「ワン、ツー、」と目を合わせながら気合を入れて演奏を始める場面など、音楽を楽しめる視覚的情報が、演奏場面にはたくさんあるからです。
 音は「響き」でもあり、「音」としてはほとんど聞こえない人も響きは正確にとらえています。聴覚障害者による太鼓のバンドが活動しており、その演奏を聞いたことがあります。外国にはプロの楽器奏者(マリンバ奏者)もいるとの話を聞いています。「カラオケボックスに行って歌いまくるのが好き!」という知人もいます。

 私は授業の中で、「手話をメインに使う人は聴覚障害者の中では相対的に少ない」とお話ししました。「聴覚障害者は手話を使うものと思っていた」と感想用紙に書いてくださった人が多かったですが、一方で、手話について誤解があってはいけないので、付け加えます。
 個人によって、手話がその人のコミュニケーション手段の中にどの程度のウェイトを占めるかは、ゼロの人から100パーセントの人まで開きがあるわけですが、手話ももちろんコミュニケーション手段として不可欠で重要なものです。
 かっては、手話、そして手話を使う人々は嘲笑の対象でした。教育においても、手話は正当な言語としてはほとんど認められていませんでした。口話で100%コミュニケーションできること(口の形を見て、すべて理解し、聞こえる人と同じように発声できること)が至上とされていました。
 今では、「聴覚障害者」と言えば誰もが「手話」と連想するほど、よく知られており、関心も高いのは、手話を母語とする人たちの粘り強い運動があったからです。

 私自身は、情報を発信し受け取るチャンネルはいくつも持てるのがよいと考えています。
 たとえば、数字の「(いち)」と「(しち)」は音や口の形が似ています。このため「1時集合」を「7時集合」とをまちがえた経験もあります。手話ならば、誰でもすぐに覚えられる簡単な指文字で、「1」と「7」ははっきり違うので、まちがえようがないです。
 「たばこ」と「たまご」は、口の形だけでみると全く同じです。前後の話やその時の状況で、推測するしかありません。だから、「○○○を買ってきて」と言われたら、たばこなのか、たまごなのか、迷うかもしれません。手話では明らかに違う表現になります。
 このように、聞こえない人が育んできた言葉である手話には、目でみてはっきりわかる特色があります。

 手話やそのほかのいろいろなコミュニケーション手段が、対等のものとして十分に活用できる環境を望んでいます。

 欠格条項について、その実態、問題をしっかり受けとめられたことがレポートにあらわれていました。ぜひ、これからも関心をもっていっていただければと思います。

 今回の授業をともにできて楽しかったです。ありがとうございました。