優しき挑戦者(阪大・ゲスト篇)

「秀才→薬物依存、そして、支援者になっためばさん」
Freedomコーディネーター:めばさん(2002.4.17)

記録と編集:細谷恵美さん・中村寿美子さん

―「福祉と医療の人間科学」のモットーは“自分で学び取る”こと―

ゆき:  「福祉と医療の人間科学」第1回目の授業のゲスト、めばさんです。私の授業はちょっと変わっているかもしれません。教科書や文献をもとに体系づけて教え込むようなことはしません。みなさんは、もう大人なのですから。

 「これは!」というすばらしい方を次から次にここにお呼びしてきますので、その方たちから学び取って、「発見」してほしいのです。こんな人に会いたいという希望がありましたらメールかファックスで送ってください。きょうは、徳島の「ハートランドあっぷる」のリーダー、山下安寿さんも聞きにきてくださっています。講師としてお呼びしたい方ですのに、交通費自分持ちで聞きにきてくださっています。

―めばさんのご紹介―

ゆき:  お待たせしました。めばさんは、北海道の付属中学校の大秀才で、しかも美少年だったのでバレンタインの日にはクラスメイトの女性たちから山のようにチョコレートが届くという、幸せな中学生時代を過ごしておられたのです。けれど、あるときから薬物依存の世界に入られました。20代は、ポルノ雑誌のカメラマンをされたり――私には作品を見せてくださらないんですけれども――さまざまなことを経験されました。精神病院にも何回も入られ、そして今は薬物依存の人たちを支える側に回ってらっしゃいます。では、よろしくお願いします。全部お任せいたします。

めば:  12時まで?

ゆき:  ええ、質問もあると思うので、15分か20分ちょっと残して……。

めば:  さっき先生もおっしゃったけど・・・

ゆき:  先生じゃなくて、由紀子さん(笑い)

めば:  あ、ごめんなさい。ごめんなさい。「由紀子さん」ね。

―優等生の子ども時代―

めば:  由紀子さんもおっしゃいましたけどね、子どものころから勉強もできたんですね、すごくね。通信簿はいつもオール5やったし、家帰ったらいつも問題集こんなに積んであってね(笑い)、それ全部解かないと遊びに行かしてくれないというね、ひどい親でね。

 「めば」は私がつけた名前。親がつけてくれた名前は、いい大学の合格者を見て、そっからつけたとかね(笑い)・・・何かとんでもない親ですけどね。父親は、お酒呑みながら説教するわけね。大企業の管理職で、3年か4年くらいで転勤をするっていうような、そんなファミリーだったんですよ。だから北海道に行ったり徳島に行ったりね、あ、徳島も住んでました。徳島にもいましたしね。まあいろんなとこに行ってました。

―いい子の自分に吐き気を感じて―

めば:  中学校のときね、北海道に行って、教育大付属中学校にも入って。でもある日、中学校2年くらいの時かな・・・なんか、だんだん吐き気がしてきたのね。子どものころから、「いい子ねー、いい子ねー」っていうふうに言われて、学校の先生にも言われてたし、親戚のおじさんおばさんにも言われてたし、家の人にも言われてたし、だんだん言われるたびにね、「おかしいな」・・・何か周りの大人たちがね、こういう子どもがいい子どもなんだってね、そういう物差しに合わせてる自分っていうのがいて、それが何となく分かってきたわけね。まあ「嫌だな」っていう風にね、ある日思い始めてね。

 で、スポーツもできる。バスケットボール部とサッカー部と陸上部を掛け持ちして、陸上大会になったらいつもリレーでアンカーで走るとかね、自分で気持ちが悪いんですね(笑い)。はっきりいって気持ちが悪い。自分だから仕方がないけど、目の前にそういうやつがいたら、何かこう殴り倒してやりたいくらいのね、そんな気持ち悪さなんですよ。

―親と子の普通じゃないコミュニケーションに違和感を感じて―

めば:  でね、薬物は興味ありましたね、もともと。まあひとつにはね、父親がさっき言ったみたいに、お酒呑みながらいつも説教するわけですよ。うちはサラリーマン家庭やと。だからお前も今のまま勉強してって、大学はいい大学の商学部か経済学部に入れと。そうでなかったらそういう会社には就職できへんと。で、一部上場企業の、年4回ボーナスが出る、社宅が完備された、私が勤めているような会社に行かなければお前の未来はないよ、と。毎晩お酒を呑みながらですね、そういうふうに私の父は、わたしに言っておりました。

 酒呑まないと何もね、よう説教せんのですよ。酒呑まないときはうちのおかあちゃんを通して、私にメッセージが来る父親でね。今でもそうですよ。今はもう70超えてね、半分棺おけに足突っ込んでるくらいの歳ですけども、電話するでしょ、したらうちのお父ちゃん出るでしょ、で何か言おうとするでしょ、したら「ちょっとまってな、お母ちゃん呼ぶから」って、「いや別にお父ちゃんでもええねん」、ね。
 「イやちょっと待って、お母ちゃん呼ぶから」つって・・・私と話したくないんかなっていうくらい、それくらい何ていうかな、コミュニケーションの形がおかしかったですね。すごくおかしかった。

 で、まあそんなこんなでね、中学校のときに自宅で吸い始めたんですね。自分で買ってきて、誰に勧められたわけじゃないんですよ、まあ接着剤買ってきて吸ったんですよ。それが始まりです。で、ときどき親の目隠れて吸ってました。でも勉強はしてました。

―転校し味わった孤独―

めば:  で、高校のときに北海道から京都の舞鶴ってとこに転校になりましてね。で、転校してね1年くらい私友達できなかったのね。全然。話し掛けるきっかけを失ったんですよ、新しいとこで。何かね、学校行きだして3日たってもね、5日たってもね、友達ができないんですよ。いつかできるだろうなあ、と思ったらね、でもできないんですよ。1ヶ月たってもできないんですよ。で、学校行ったらものすごい緊張感なんですね。ご飯もいつも1人で食べてるしね。休み時間すごく長い感じ・・・、10分間の休みが長いんですよ。早く授業はじまらへんかなって、いつも思っててね。ほんでトイレ行くでしょ、そしたらなんかやんちゃな子が5〜6人でたむろしてるでしょ、「わたしの悪口言ってるんじゃないか」ってね、「あいつは何か・・・」って言ってるんじゃないか、ま、そんな状態が一年続いたんですね。

 で、もう学校行くの嫌や、行かないと。もうテストもボイコットしだして、中間テストとかそういうの結構ボイコットしたりとかしだして、もう学校行かないって言い出して、行ったり行かなかったり・・・。まあそんな不登校とか引きこもりとかそんな状態ではないですけども、まあ学校サボって、墓場でシンナーを吸うとか、裏山に登って一人で過ごすとか、そういうことやってましたけどねえ。

 隣の街のジャズ喫茶に行って一日中たむろしてるとか、そんな感じですけども。とにかく行きたくない、学校ウンザリ、ね。そりゃそうですよね。友達できないくらいおもしろくないことないですよね。

―シンナーのおかげで友達の輪が・・・―

めば:  そのうちね高校2年にあがるかあがらないかくらいの時に、その学校にワルのグループがあって、んでその子達がシンナー教えてくれっていうんで、じゃあ教えましょうと、まあ20人ぐらいにシンナー教えてね、で、友達ができましてね(笑い)。

―しかし、ほんとはシンナーだけじゃなかった・・・―

めば:  最近、そのころのワルのね、一番シンナーを教えた友達からね、30年ぶりに電話かかってきて、私、結構年なんですよ、もう47ですからね。30年前、17歳のときね、一緒にシンナー吸ってた。で、わたし、「シンナーのおかげで友達ができた」って、いろんなとこでしゃべりまくってたんですよ。

 そしたらちょうど3ヶ月くらい前に電話があった。もうずっと音信不通だったんですよ。ところが、たまたまこないだ相談を受けた家族の親戚のおじさんが、私がシンナーを教えたワルだったんですね。で、友達から電話かかってきてね、「お前の体験談はちゃうよ」とね。「シンナー教えてくれたから友達なったんとちゃうよ」とね。「それだけとはちゃうよ」と。「シンナーもあったけど、お前の話は面白かったんや」と、ね。「いろんなこと知ってて、アンダーグラウンドの芝居とかいろんなとこ連れてってくれてね、ほんと面白かったんや。シンナーのせいだけとちゃうで。」っていうふうにね、「体験談書き換えろ!」、なんてね。30年昔から電話があって、「ははーっっ」とか思いましてね。

―好きな女性と別れて切った手首―

めば:  うーん、そやなあ。まあ薬物依存というのはね、まだ高校生のころは薬物依存症まで行ってなかったんだと思うね。だけど高校を出まして、まあ私家出したんですよ。何で家出したかっていうと、母親が私の恋路の邪魔をしたから・・・私の恋人の職場行って、「うちの子どもは今大切なときなんだから、社会人のあんたがちょっかいだすな!」とか言って、で、別れる羽目になってね、で、その時ね、わたしね、母親によう言わないですね。まあ別れるときに・・・

 まあ私、こんな格好をしてるけど、ま、どちらかというと女性が好きなんですよ。結婚もしてますしね。ま、男性が嫌いというわけではないですけども、女性、まあどちらかというと女性が、セクシュアリティの対象はね、好きなんで・・・・。その彼女と別れるときに、言ったのね、ほんとはあなたのお母さんが、言いにきたんやと、だから私別れるんやと、もう見合いしたんやと。もうダイヤモンドの指輪光っててね、話が早いんですよね。・・・(笑い)・・・あちゃーとか思ってね、私がプレゼントしたの、800円のガラス玉なんで、突然ダイヤモンドですから・・・、ショックですよね、高校生からしたらねえ。

 で・・・、彼女がね、別れ際にね、「だけどお母さんにね、あんた怒っちゃだめよ」とね、「かみついたりしたらだめよ」と。で「私がこんなこと言ったのもだまっといて」と。で、後で家帰ってね、もう母親殺してやりたいくらいの気持ちやったんですよね。何も言わないしね、そのことね。だけど、私は、別れた彼女の言葉を守るくらいいい子なんですよ。ちゃんと守るわけね。怒っちゃだめよって言われたらね、「はい」っていう感じでこう、やっぱり言えない・・・、ね。

 その代わり何をしたかって言うと、カミソリ持ってきてね、手首を切ったわけですよ。ま、死ぬ気はないのね。切ってね、ぐいぐいと押し付けてね、「痛いだろうなあ」とね、「あ、血出たわ」ってね、なすりつけてね、それからはイスをばーっとけとばして、音立ててね、母親に聞こえるようにね。

 で、母親がばーっと下から上がってきて、「どうしたのどうしたの」とか、いきなりこう手首つかんでね、「こんな・・・、手首まで切って」とか言って、こう、おろおろ泣くわけですね、私の背中越しにね。私は「おまえが切らせたんだろう」とか内心思ってるわけね。

―かまってほしいからリストカット―

めば:  まあ、それから癖になってね、それから30何回切っちゃったんだけど、30何歳までね。まあリストカットもですね、やっぱり・・・。まあだけどね、私のリストカットは、死のうと思ったことは一度もないですね。何か、その、まあ私のことを見つけてほしいみたいな感じですね。こちらのことに気づいてよ、みたいな。あるいはかまってほしいな、とかね。いつもそう、だから精神病院の中ではいつもやってましたよね、私ね。

 精神病院入院したら刃物とかいっぱい、全部取り上げられるんですよ。でもこっそりね、コーラね、注文するでしょ。で、引きぶたあるでしょ。昔はあのプルタブがぱっと外れたんですよ。今はくっついたままやけど。まあ、あれを、精神科のトイレのざらざらした壁でガーっとこすって、刃物作るわけですね。で、自分が好きな看護婦さんがいるでしょ。その看護婦さんが准夜とか夜勤のときはこっそりね、あの詰め所の当番表こう覗いてね、「あ、今日はあの婦長やもう寝よ、今日は寝よ」とか「明日や」とかね。で、その看護婦さんがこう夜勤にこられたら、プルタブを持ち出してね、キャッキャッとね、切るわけですね。で、「切っちゃったー」とか言うわけですよ。じゃ、包帯巻いてくれるんですね。「やったー」ゆうかんじで・・・。

 あの、まあそんなもんなんだけどね。だけどまあ、それが・・・、そういう部分がすごく私自身の薬物依存とか、まあ依存症の本質的な部分でもあるんですよね。あのー・・・、まあそういうことをやってました・・・・。

―シンナー・薬物との逃避行―

めば:  で、まあ、あの話がほんとに飛んでごめんなさいなのだけど、うちの母親がそういうことしたんで、私は高校出て、もうバイトするって言って、2ヶ月間バイトして、んで家出資金を貯めて、東京に家出を決行したんですよ。で、新聞配達の住み込みのとこに入って、であとはフーテンみたいな生活を3〜4年してました。その間にもどんどんどんどん薬物はひどくなっていってね、あの親の目が届きませんから、ビニール袋入れて、こう、やるわけですね。じゃあ、気持ちいいんですね。『時には母のない子のように』とかね、『東京はみなしご』とかね、何かそういう何かね、寂しいことに酔えるような・・・、そういうフレーズの歌を聞きながら、こう吸いはじめるとですね、すごくいい気持ちになるわけですね。

 で、だけどシンナーっていうのはね、やっぱり全然違う世界へ飛んでしまうんですね。最初の吸いはじめの10分くらいはまあアルコールで酔うように歌も聞こえてくるわけですけども、まあ気が付いたら幻魔大戦のジョーになってですね、非常に超能力者じゃないかってこう思って、こうシンナー切れたらほんとに超能力なくなってしまうと思ってね、パジャマ一枚でタクシー呼んで新宿の密売人のとこまでですね、トルエン買いに走ったりとかね。

 全然あともう記憶が切れ切れなんですね。もうシンナーを・・・、シンナーって、まあ、トルエンでしたけど、トルエンを吸って、近所のね、銭湯に行くでしょ。で、ぱっとね、はっと気づいたら、まあ、体こう、拭いてるんですよ。「シャンプーしたかなあ」とかね、「あ、体洗ったのかなあ」とか・・・・、また入るんですね、湯船にね。こう、もう5分前のことを覚えてないのね。「あれ?御飯食べたんかなあ」とか、「これ空なってるけど食べたんかなあ」っていう感じで。まあそれくらい老人ボケみたいな感じですね。そんな感じ・・・、でした。

 んでまあ、体重もね、今より20〜30キロはやせてました。40何キロまでガリガリになって、何か顔もどす黒くなって、何かいっぱい吹き出物もできて、何かもう最悪っていう感じで・・・、こうなってきました。

―精神病院を勧められて―

めば:  でそのうちまあ精神病院にね。友達が心配してて、知り合いの精神科医を喫茶店で紹介してくれたんですよ。そういうのが2回ほどありました。で、1回は、彼が雑誌の編集者してたんで取材で、知ってる精神科医のとこへ行くっていうんで、ついてったんですよ。私は「病院嫌だ」って言ってたんで、その精神科医に、見せようとしたんでしょうね。東京の井の頭病院っていうか古い病院でしたけど、「あぁ精神病院か」と思いながらついていきました。

 喫茶店であったときの精神科医に言われたのが、「あなたはもう物理的に隔離されなければ止まらないとこまで来てるから、とにかく入院しなきゃ命がないよ」と、言われました。だけど私は、「いやだいやだ」といってました。だけどね、その友達に井の頭病院に夜連れてかれたときにね、なんか夜の病棟が見えたんですよ。檻があってね。窓際に何か髪の毛が長い男の人がいて、外をぼーっと見てたんですよ、若い人がね。で、何か月が照っててね。で、そのときに何か、「あ、もうあそこに入ってもいいなあ」っていうふうに、何となく思ったのを覚えてます。ま、でもすぐ入院しなかったです。

―やめられない!中毒症状との闘い―

めば:  それから、ひどい状態が続いていきましたね。で、シンナーも1日4缶ぐらい吸ってましたし・・・、で、効かないんです、もうね。効かないシンナーを吸っては次に、あの黒いごみ袋の中に捨てていくわけですよね。くくってね。で、はっと気づいたら、目がさめたら寝床にこうやって肘ついて、吸ってるわけね。でまた、こうごみ袋の中に捨てて。気が付いたら寝てるわけですよね。で、またごみ箱あさる・・・、朝、ね、起きた後ごみ箱あさって、シンナー振って・・・。こんなことじゃいけないと思って、シンナーの袋しか入ってない黒いビニール袋を、ごみのとこへ放りに行くわけですよ。マンションの下のね。でも、また吸いたくなるわけですね。で、ごみまた拾ってくるわけですね。でまた部屋であけて、それを3回ぐらいくり返すわけですね。

 そのうちごみ運搬車が来るわけですよ。「あ、ちょっと何か・・・、大事なもん捨てちゃったから、袋返してください」とか言って、またそれを・・・袋を回収してですね。ほんと何か汚いって言うか、ぞっとしますね、自分でも思い出すとね。それぐらいしつこいっていうかね、まあ中毒の・・・シンナー中毒の状態ですね。

 で、そのうちね、心配した人たちが「病院にもこいつ行けへんし」・・・、で、酒場に連れてってくれた人もいましたね。酒場に連れてって、でお酒に変えよう、とか言ってね。だけどいつもジーパンのポケットにビニール袋入れてるんですね、私ね。で、酒場行ったらね、ウイスキーをごぶごぶっとね、ビニール袋の中に入れて、こうやってやりはじめてね、「お前なんか出て行け」とかって、追い出されたりとかね。ま、そんな感じでしたね。

―複数のクスリと幻覚に悩まされて・・・―

めば:  そのうちにシンナーだけじゃなくて、シンナーと大麻と、あとオプタリドンていう鎮痛剤があったんですが、それをふた箱、1日ね。「妹が生理痛なんです」とか言ってね、薬局回りをして、とにかく1日2箱ね、これを手に入れないと・・・もうそっちの中毒もなってましたから。「無水カフェイン」っていう覚醒する成分がいっぱい入ってる、かなり問題になった薬物だったんで。

 この鎮痛剤2箱と、大麻と、シンナー、それをやってるもんで、そのうちね、シンナー吸ってなくても幻覚見るようになってね。家の部屋の上を3機くらいヘリコプターが無線交信しながら飛んでるわけですよ。麻薬捜査官でですね、それがね。「あいつを見つけた」とかね。で、電気屋のテレビには全部私の顔が映ってるわけですね。友達がね、心配して付いててくれると、2人くらいついててくれてね、私を殺す相談をしてるのね、「ナイフを用意したか?」とかね。

 怖くて怖くて仕方がないんですよ。で、今度こっちからは神様の声が聞こえてきてね、「ちょっとでも身動きしたらお前は殺される」とかね、朝までずっとこの姿勢で6時間もじっとしてたりとかね。で、「お前が動く姿を人に見られたら、お前は殺される」、とかね。、トイレ行きたいとき、もう苦労しますよね。友達が見てるときこうやって止まってね、友達も怪訝な顔して、ふっとね。30分ぐらいかかるんですよね、3メートル先のトイレ行くのに。とにかくそういう命令が聞こえてるわけですよ。

 「お前が動いてるところを見られたらお前は殺される」って言うから、だから絶対に友達がほっと横向いたときしか動けないんですよ。で、そんな感じでね、もうどうにもならない状態ですね。

―そして、精神病院へ―

めば:  で、結局ね、何で入院することになったかっていうとね、友達が神戸に住んでた母親のとこに言いに行ったのね。「このままだと、死んじゃうよ」っていうことで。で、母親がこう迎えにきました、私をね。

 「あんた友達に聞いたよ」と。「シンナー止められへんねやろ」って、こういうふうに言いました。私はおすし屋さんで母親と2人でね、「うん」とかっていってね、で、土下座して「ごめんなさい、ごめんなさい」ってね。わんわんなきながら、「じゃあ精神病院に入院します」って。もともといい子ちゃんでしたから。そうか、と。

 ダルクに相談に来られる方は、「うちの子、病院入院すんの嫌がるんですよ」とかね、「そんなんどうしたらいいですかねえ」とか。私から言ったら信じられないんですけどね。私はもうそういうふうになると、「はい」っていってね。だけど、「じゃあもう部屋を整理して、神戸にかえろか」ってうちの母が言ったんですよ。「お母ちゃん整理しといて、私しんどいし」とか言ってね。「あ、ほなもう神戸に帰るんやったら、友達に挨拶してくるわ」とか言ってね。「ちょっと待っといてな、片付けといて」とかで、ばっと行くでしょ。じゃシンナー仕入れてきてね、またね、で吸ってるわけですね。もうさっき母親の前で土下座して、30分も経ってないですね。そのときは、ほんとに悪いことをした、ほんとにやめたい、そういう気持ちなんですよ。でも30分後に欲求が出てきたら、また母親をだまして吸ってる自分がいる。

―やめたくてもやめられないのが薬物依存症―

めば:  これが依存症ですね。なぜやめないのか、周りの人はね、いつも言うんですね。なぜやめないのか、なぜまたやっちゃうのか、ね。て言うんですけど、やめようと思ってもやめられないのが薬物依存症なんですよ。自分の意志とは関係なくやっちゃうんですよ。意思が使えないんですよ。通常の意味での「意思」っていうのが使えない状態になってるのが覚せい剤中毒だったり、アルコール依存症だったり、シンナー中毒だったり、薬物依存症の症状なのね。やめようと思ってやめられるんだったら、これ依存症にならないわけですよね。やめたいけどやめられない。これが依存症なんですよね。

 まあそういう状態になってきました。で、結果的にはやっぱり私は、ビニ本のカメラマンやってるときもそうだったけど、精神病院4回・・・20代のうちの2年くらいは精神病院の中で過ごしました。

 で、最後にトルエン吸ったのは27歳の時でした。で、ずーっとやっぱり吸ってたからね、だんだん幻覚も何も見なくなったんですよ。シンナー吸いながら日常生活が送れるようになったんですね。不思議だけど、シンナーね、だんだん病気が進行していくと、いろんなことやりながらシンナー吸えるようになるんですね。不思議なことにね。幻覚もあまり見なくなってきた。

―27歳、最後に見た幻覚―

めば:  だけどね、27歳のある日ね、トルエン吸ってすごい幻覚見た、最後にね。部屋ん中にね、どかーんと大きな壷・・・よくあるでしょ、何かこう中華料理屋・・・大きな中華料理屋の、中国風の壷っていうか・・・ああいうのがぼんっとね、もう4畳半の狭い私の部屋のど真ん中にぽんと出てきて、でね、中を覗いたらね、水がたまっててね、シーラカンスが泳いでるんですよ。なぜシーラカンスなのか分からないですけどね、シーラカンスが泳いでて、シーラカンスの口からね、ぼこぼこぼこーって水の中なら煙が出てきて、空中にバーっと広がってったんですね。それが神様になってね、神様の形なってね、私に説教するのね。「お前はまたやってる」とね。「また親にかね使わすのか」と。「また精神病院はいんのか」、ね。「いつなったらやめるんだ、ええ年こいて」とかね。ほんでそれに向かってぼろぼろこう泣きながらね、「ごめんなさい、ごめんなさい」とか言ってね、まあほんとに見えてますからね、謝るわけですね。

 まあそれは自分自身の中の声だったんだろうけども。まあそれから私どうしたかというと、家に電話なんかなかったし、テレビもなかったし・・・まあすごいひどい生活ですよね、テレビも2年くらい見たことなかったですからね。まあ毎日シンナーですから。・・・公衆電話まで走っていって、で、神戸の両親に、また電話をしました。

 「あ、もうだめだ」と。初めてね、ギブアップしたんですね、自分でね。「助けてくれ」というふうに、電話をしました。で、部屋に帰ってね、「うちの両親だったら明日ね、神戸からね、うちの父親も会社休んですっ飛んでくるわ。新幹線乗って。」とか思ってですね。「その時にこの部屋見られたらかっこ悪いなあ」とかねえ。空き瓶がいっぱい転がっててね、ぐちゃぐちゃだしね、シンナーだらけなんですよ、袋だらけなんですよ。においもひどいし。で、叱られるだろうな、って思ったんですね。

 私すっごい親に叱られるっていうの、すごく怖いんですよ。(笑い)今でも怖いけどね。怖くてこわくて仕方ない、うちの親ね。「いや〜、また叱られるわ、どうしよう。」で、私は考えたと。あ、これ手首でも切りましょう、と。ちょっと今回は大げさにやっとかなきゃいけないっていうことで、4針くらい縫うくらいさくっと切って、血の出が悪いんで、洗面器に手突っ込んで、血を出してですね、服から壁からなすりつけて血だらけの部屋を一応作ってですね、「これで両親が来てもそんなに叱られなくて済むわ」と思って、眠りにつきました。

 そしたら次の日、コンコン、ってこうね、昼ぐらいでしたけど、来て、両親が立ってました。「ああ、大変や」、と。「ああ、また手首切ってるわ」、とね。で、病院連れてって、そしたらまあ軍医上がりの、近所に結構おじいちゃんの外科医がいるんですけど、「お前若いんだから死ぬ気になれば、人生はやり直せるんだ」、とかね、別に死ぬ気なんかないんだけど・・・。で、4〜5針縫ってくれてね、また連れて帰られて、精神病院にまた入院した。その入院中・・・、その入院はやっぱり4〜5ヶ月・・・、じゃないわ、8ヶ月くらい入院してました。で、それだけで終わらなかったですね。

―クスリの重複依存―

めば:  関西に帰ってきて、今度は病院でもらってる処方、睡眠薬、精神安定剤の依存症になっててですね、シンナーは止まったけど、いっぺんにつよーい睡眠薬を20錠30錠飲むようになった。

 当時大阪の堂島にある写真学校に行ってましたけど、カメラマンをやろうと思ってね、で、授業中に写真批評という授業があるんですね。クラスのみんなが撮ってきた写真をですね、先生とみんなで、「この写真はどうだ」、いいかとか悪いかとかね、まあそういう授業があるんですが、すごい嫌いなんですよ、みんなでやるの。みんなの中に溶け込めないから、私は。そういう学校行っても、いつも1人でね、ぽつんとしてて、苦痛なんですね。カメラ持って好きに撮ってきなさいみたいな感じで、それは超得意なんですけど、みんなで、クラスで一緒になんかやるっていうのはできない。だからすごいストレスですね。だから写真批評の時間が始まってね、もう5分後にはトイレ行って1日分の安定剤と睡眠薬全部ガリガリガリーって飲みほして・・・、でまた10分ぐらい経ったらまたイライライライラして来てね、またトイレ行ってガリガリガリっとね。そういうの何回くり返すか分からないですね。一時間ぐらいの授業の間に。

 気が付いたら職員室のソファーの上によだれたらして寝てて、両親が迎えに来てて、で、授業の本も鞄もないし靴もないし、「お前ははだしで歩いとって保護された」っていうことで、また精神病院に連れて行かれて。薬をちょっと抜くような副作用止めの注射を打たれて・・・、まあそういうことを繰り替えしたんですね。結果的に今度はまた睡眠薬の中毒で、入院しました。最後は部屋ん中でたくさん飲むと30時間ぐらい眠りつづけてて、気が付いたら垂れ流してて・・・、気が付いたらね、全部ズボンもパンツも脱がされてて、ぱっと見たら父親の背中なんですね、おんぶしてトイレに父親が連れて行ってるんですよ、私をね。そこから意識がない。何かそんなんがこう続いてって、で結果的にまた、精神病院に入院ってことになりました。

―やめるための努力〜コントロールが効かない自分―

めば:  止めるためにいろんなことやってたんですよ。22歳のときも母親がね、生駒の断食道場に私を連れてったんですね。「もうあんた修行しなさい」っていう感じでね。2週間くらいおりましたけどね。断食はしました、でも睡眠薬飲んでたからね、すきっ腹によく効くんですよ、薬がね。(笑い)「これサイコーだ」、とか思えてね。それから肉食えないんですよね。肉食えない、私。何かそれまでは肉食べてたんだけど、今は肉よう食べない。何かそんなんになってしまって。

 まあほんとにね、止めるための努力は自分なりにいろいろしました。何か趣味に打ち込もうと思って釣りをしたこともありますね。で、釣りをしだすと、アディクションですからね、母親がダイエーで安い、ワンセット1000円ぐらいの釣りざおを買ってくれたんですね。明石に住んでたときですけどね、29歳の最後のね。そしたら毎日ね、面白いなと思ったら毎日海行くわけですよ。小遣い全部釣りえさ代で、睡眠薬かじりながらですね、3日ぐらいね、もうこう波止場で睡眠薬かじりながら家帰らないんですね。お金がなくなるまで。釣れようが釣れまいがね。だから私はね、何をしてもコントロールが効かないんですよ。ほどほどにね、何かをやるっていうことができないですね。

 高校生のころね、好きになった人がいた。で、1日3通ぐらいラブレター書くんですよ。それもね5枚10枚ぐらいのね、いくらでも言葉が浮かんでくるわけですね。で、番号振ってね、1・2・3、朝昼晩ポストに入れてね、それを毎日毎日送りつづけるから、相手もびっくりしてしまって、何ていうかな・・・だからほんとコントロールっていうのがね、何をしても持てない。で、仕事してやってもね・・・、私なんか仕事やろうと思ったら、薬止めてからもそうやけど、大体どこも一発で受かるんですよ。それで、「ああ、いい人が来てくれた」っていうことで、採用していただけるわけですね。で、仕事も真面目にやりますからね・・・、シンナーも真面目に吸ってたけどね、仕事や趣味も対人関係も非常に真面目にやるわけですね。だから、これは「いい人が来てくれたいい人が来てくれた」って・・・。

 そりゃそうですね、「相手に気に入られよう、気に入られよう。そのためにどうすればいいか」、っていっつも頭の中で考えながら、緊張しながら生きてますから、もう150%、200%ぐらいの力を出して、期待に応えようとしますから、だからいい人やいい人やって言われるのはあたり前で。

 だけど2ヶ月たったらある日薬ね、ガーって使って、無断欠勤で給料も取りに行かなくて、気が付いたら精神病院の中っていうか、まあそういうパターンなんですよね、結局ね。ですからまあ私の病気は、その薬物が問題っていうよりも、依存症・・・、何か今思いますけども自分の力の持ち方のバランスが取れなかったり、やっぱり対人関係が上手くいかなかったり、そういった事っていうのがほんとはすごく大きかったんだろうなっていうね。

―宗教の合宿にも惹かれるが・・・―

めば:  で、なぜ止められたかっていうと、まあ30歳のときに精神病院入院してて、そん時にはもうどうしようかなあと思ってね、どっか新興宗教の修行に行こうと思ってたんですよ。私新興宗教ってすごい興味あってね、オウムもすっごい興味あったんですよ、ほんとはね。薬止めててね、オウムの麻原彰晃のあれ見たときね、「もう絶対行こう」と、こんな依存症の施設より絶対こっちの方がいいんじゃないかって思ったことがあったけど、まあ行かなかったんですけどもね。でも惹かれるわけですよね、何か知らないけどね。そういう・・・、なんかこう、自分に奇跡が起きるとかね、なんかそういうの一発で変えてくれるっていうね、速攻効果があるっていう。

 まあシンナーもそうですし薬物もそうですけども、何か一発ですごい自分を変えてくれたり、そういうものに対する期待度っていうのがものすごく強かったんだろうなあって思うんですよね。で、まあ30歳のときに、宗教に行こうと思って外泊許可取るわけですよ。うちの母親もオーケーして。じゃあこういう宗教の宿泊研究会があるから、まあ大本教っていう綾部にあるとこに行こうと思ったんだけど。で、1週間、病院の先生にもね、「今度はちゃんと宗教に入ってやりますから」とか言ってね、行くんですよ。でね、病院出るでしょ。1週間分の薬もらってるでしょ。そしたら駅にたどりつくまでに1週間分の薬全部服んでるわけですよね。

 だから電車に乗るまでにもうラリラリになってて、また病院に帰ってくるっていうか。だから一週間の外泊だけど、もう半日もしないうちに病院に連れ戻されて、みたいな。そんな感じなんで、たどり着かないんですね。私は助かったって今は思ってるんだけど。だからね、結局いけなかったのね。でまた外出禁止になる、病院でね、そういうことやるとね。

―ダルクへの跳躍―

めば:  まあその時に、アルコール依存症のグループにつながって回復してる若い人がいたんだけど、その人は、3回目の入院のときに私の斜め向かいのベッドにいたアル中で薬中の、もうどうにもならない人だった。病院の中で、彼の方が私より悪かったんですよ。病院の中で毎日院内飲酒はするわ、シンナーは吸うわ、壁にミロの絵みたいな壁画は描くわね。とんでもない奴で、「こいつ死ぬしかないで」とか思ってた。ところが、そいつは先にグループにつながって良くなってたのね。で、私に会いに来たんだよね。で、全然別人なんですよね、1年半ぶりに会った彼は。

 でね、「お前は意志が強い奴だ」、とか言うわけですよ。「何回病院に入ってもね、また薬使う。よっぽど意志が強いんだ。」そういう風に言うわけですよ。で、うれしくてね、意志が強いって言われてね。意志が弱いとしか言われたことないんで・・・。「そうかー、私意志が強いんだ。そんなにしてまで薬使うってよっぽど意志が強いんだー。」っていう風に分かって・・・。

 あとね、彼は「今はアルコール依存症の社会支援しかない。自助グループだとかそういうものしかない。薬中のはないから、あんたね、今は30歳や。やめて、アル中のグループとか施設とか行って、クスリ止めて、それから精神病院とか講習行って、自分と同じ薬中見つけて、そういうグループを自分で勝手に作ったらええやんか。作ったらパイオニアやで。」とか言われて、「そうかー」とかね。「精神病院なんか入院してたけど、そういうのないんか、作ったら注目されるわけやな。」目立ちたがりやですから、根はね。(笑い)そっかーとか思ってね。これやらなあかんなあ、とかね。もう自分がそういうの作った気持ちになってて、もうピンクの雲の上乗ったような感じでね。「お前が精神病院4回入ったり、シンナー吸ったり、睡眠薬でどうにもならない、それは勲章だよ、この業界では。」とかって言われて、「重ければ重いほど勲章だよ」とか言われてね、「そっか、勲章なんか、精神病院入ったの。」

 わたしはもう消しゴムで消してしまいたいくらいの、自分の過去というものに対してやっぱりこう、もうどうにもならない。30歳までこんな人生送っちゃったー、っていう気持ちでいたから、それはね、すごい革命的な言葉だったよね。「それは勲章だ」って言われたわけだ、否定しなくていいと。「それを使え」っていう風に言われた訳だからね。

―フリーダムの事業紹介―

めば:  今、私は「フリーダム」っていうところで仕事をしてます。今年のひなまつりの日に立ち上がった団体です。大阪にダルクという施設があります。ダルクっていうのはドラッグ・アディクション・リハビリテーション・センター、薬物依存症の回復施設です。

 私はこのダルクを大阪で創設し、去年の6月まで8年間そこで仕事をしていました。この大阪ダルクが去年7月に、大阪市の精神障害者小規模作業所の認可を受けましたので、そこを退職して、ダルクの向かいにフリーダムっていうオフィスを構えて、そこでいろんなことをやってます。

 薬物依存症の家族の電話相談に乗ったり、月に大体10人くらい来所されてその相談にのったり。拘置所に収監中の薬物依存者へのインタベンションプログラムっていうのもあります。拘置所に収監されて裁判を待っている薬物事犯の人たちからの結構手紙が来ます。薬が切れて正気になると、「これからまた刑務所に行くことになると思うけど、出てきたら何とかしたい」とかっていって手紙が来るわけですけど、そういった人に手紙を送ったり、直接会いに行くわけです。拘置所にいきなり会いに行っちゃった方が早いんで、そういう活動をずっとやってきたんですけども、ファイザー製薬から助成金をもらって、弁護士さんたちと話し合いしながら拘置所にいる人たちのためのパンフレット作りをしたりしています。

―さまざまな相談が匿名で〜薬物依存電話相談〜―

めば:  薬物依存っていうのは犯罪でもあるんですけども、一方で病気ですから、「刑務所とか拘置所を出たときに、治療していった方がいいんじゃないですか、一緒にやりませんか」といったパンフレットを今作っています。あと1週間ぐらいしたら刷り上るので、京阪神の全法律事務所に配って、いろんな弁護士さんに知ってもらおうという、本年度の重点事業です。

 薬物依存電話相談とうのもあります。土曜日3時から7時、20何人かのボランティアの人にお願いしています。普段は保護監察官とか病院のソーシャルワーカーとか、学校の先生とか福祉事務所の職員とか、あるいは薬物依存者の家族で、家族のプログラムに参加しながら・・・、そういった人たちがいろんな薬物がらみの相談、「うちの子どもがシンナー吸ってる」っていう相談もあるし、「覚せい剤を扱って子どもを虐待してる」という話もありますし、ほんと様々な相談を受けてます。

 なぜこういうことをやってるかといいますと、8年前にダルクができたとき、毎日毎日電話がかかってきました。最初は、私ひとりで24時間体制で、1年365日体制でやってました。夜中でも電話かかってくるんですよ、「うちの23歳の娘が3歳の孫の前でシンナーを吸ってて、3歳の子どもにも吸わせてると、どうしたらいいでしょう」っていうようなおばあちゃんからの相談とか、覚せい剤中毒の息子にいまトイレに監禁されてて出れないと、そういう母親からの電話であったりとか・・・。

 本来は警察が対応すべきものなんでしょうけども、警察に電話すると、自分の子どもを警察に売るということになるんでですね。家族としては、警察につかまらずに何とか助けを求めたい、そういう気持ちがすごくあるんですね。だから保健センターや覚せい剤110番に電話するよりも、とりあえず匿名で電話相談できる場はないかと、それでダルクにやたらかかってくることになります。中学生がシンナー吸い始めたっていうのから、39歳40歳で覚せい剤を打って親を、年老いた両親をどついてるとか、そういう相談まで、そういう電話が1日3件から5件くらい、かかってくるわけですね。年間にしますと、数100件から1000件に近い電話が、全てダルクにかかってきてるんですね。

 ダルクっていうとこはどういうとこかというと、覚せい剤やシンナーで捕まると、とりあえず刑務所ですとか精神病院に入って、身体からクスリが抜ける。でも、またやっちゃう、また刑務所にはいっちゃう、また精神病院に入っちゃう、そういうことをみんな繰り返してるわけですね。ですから、そういったところを出た後で、すぐ仕事につかないで、薬使わないで、どうやって生きていけばいいか、それを数ヶ月から1年くらいかけて、集中的に、まあリハビリテーションですね。薬を使わないでどうやって生きていけばいいかを学ぶ場でもあるし、そういうことを体験する場でもあるんです。

―ダルクから、フリーダムに至るまで―

めば:  ダルクやりながら、電話の相談や家族の方の来所相談に乗ってたんですが、もうそういう相談ばっかり来て、ダルクに寝泊りしてる薬物依存の方たちのケアがおろそかになってきまして、もうこんな家族の相手なんてしてられないと思えちゃってね。で、放り出したわけですよ。わたしはもうやりません、って感じでね。

 そしたら大阪ダルク支援センターの方たち・・・ウイークデイは援助職についてる方たちが、ボランティアで、毎週土曜日4時間だけ、電話相談をやりましょうということで。それで、今も続いております。先週の日曜日にダルクで、電話相談やってる人たちが研修会をやりました。年に1回研修会をやりながらやってます。

 お配りして案内に、薬物依存の各種グループへの場の提供と書いてあります。これはNA、薬物依存者の自助グループ、セルフヘルプグループのことです。断酒会、お酒やめる会があるんですが、それの薬物版です。関西では1986年の7月、十三で週1回、週1時間だけのミーティングが始まりました。今は週に15時間ぐらいやってます。

―自分自身の薬物経験から―

めば:  私自身、さっき、ゆきさんがおっしゃいましたけど、シンナー、鎮痛剤、睡眠薬、大麻とかもやってました。それで、20代のうち精神病院に4回入院してるんです。、最後に入院したのが29歳から30歳にかけてです。当時はアル中、アルコール依存症のためのいろんな施設ですとか、アルコール依存症の自助グループはあったんですね。だけど、まだ、薬物依存症の人たちのためのダルクもなかったし、ソーシャルモデルっていうものは何一つなかったんです。医療さえなかなか受け入れてくれない、覚せい剤やシンナーっていうと、もう困るっていう、ほんとにたらい回しのようにされて、結果的には回復の場っていうのを与えられずに亡くなっていくっていうひとが大半だったと思うんです。

 30歳の時、4回目の入院した時に、MACというアルコール依存症のための施設が大阪の天王寺の方にあったんですが、そこにわたしはつながりまして。そこに1年くらい通いました。ただ、どうもアル中のおっちゃんおばちゃんの話とは文化が違うなっていう、施設へ行ってもなんかこうスポーツ新聞開いてですね、歌うたいだすと八代亜紀だとか、ちょっと文化が違うなっていう風に私はすごく思って・・・。まあ同じ依存症なんだけども、どうもね、なんかフィーリングが合わないっていうのがすごくあったんです。で、薬物依存の人が来ても、アル中たちとは違うっていう風に言って、すぐ去ってしまうっていうことがもうずっと続いてました。

―薬物依存の自助グループの可能性を探って―

めば:  そのときに薬物依存の自助グループがアメリカにもあるし、東京にも既にあったしね、関西でもやろうっていうことで始まりました。大阪で週1回週1時間だけのミーティングです。それから、ダルクが1993年の9月にできて、平日の昼間はずっとやってるわけですね、晩は京阪神のどこかでNAミーティングが開かれるようになり、年々、回復者と自助的な回復の場が拡がってきている。いい意味でのねずみ講みたいなものだと思います。自分の回復を伝えていくわけですから。そういうグループに場を提供したり、家族のプログラム、最近薬物依存症の人のお父さんのグループっていうのが始まって、それも結構集まってます。今までは家族会っていうと9割から9割5分くらいお母さんの立場、奥さんの立場の人が多かったんですけども・・・。

 次に書いてある関西圏での新しい薬物依存の施設の開設をする、と。そのためにお金を集めたり、人を探したり、まあそういったことをしてます。この7月から10月くらいの間に薬中のグループホームを作ろうとしてて、今資金集めを、してます。あとはニューズレターの発行ですとか、いろんなテキストを作ったり、イベントを企画したり、色々やってます。

―ダルク開設に至るまで―

めば:  私がなぜこういう仕事をするようになったのかと言うと・・・、先ほどご紹介ありましたように私は写真の仕事をしてたんです。20代の頃はちょうどヌードカメラマンを東京でやってました。大学もいってませんし、高校も卒業できるかどうかっていう程度でしたし、心理学とか勉強したわけでもありませんし、私にできたことっていうのは写真をとることだけで、それを職業的にずっとやってきてたわけです。クスリが止まってからもずっとフリーのカメラマンしてた。

 ところが東京でダルクって言うのができたんですね。で、あんたもダルクやってみたらって、何年も・・・5年くらい言われてたんですが、私はとにかく人の世話をするのが大嫌いっていうね(笑い)、まして、ボランティアだとかそういう言葉聞くと虫唾が走るっていうタイプの人なんですよ・・・もともとね。もう自分の好きなことだけ、自分の世界だけに浸っていう・・・まあ今もそうですけど。

 そういうタイプで、何かこう人の世話をしたり誰かと話をしたり、ましてや、今やっているように、「うちの子どもがクスリ使ってるんですよ」って泣いてる家族の話を2時間も3時間も聞けるようなタイプでは全然ないわけです。今でこそ、こうやって人前で話してますけど、ダルク始めたころ、人前にたってこんなとこで喋ろうと思ったら、「早く終わらないかな」と時計ばっかり見てね、足もがくがく震えてきて、声も震えてきて、それくらい何ていうかな、話をしたり聞いたりっていうのは大の苦手っていうか・・・、まあそういうタイプなんですね。

 だけどクスリが止まって10年近く・・・8年か9年の時に、当時もう東京とか横浜とか名古屋でダルクが始まってまして、そこの人たちが、スペインとイタリアにね、薬物依存の施設を3週間ほど研修に見に行くと。そのとき、写真の仕事もマンネリ化してて、「つまらんなあ毎日、こう仕事でこんな写真とっててもつまらんなあ」とか思ってて、「あーそうや、スペインとか行ったことないし・・・。ついてって写真でも一緒に撮らしてよ」みたいな感じで、カメラをぶら下げて行った。わたしは写真とってりゃいいんやん、みたいな感じでね。

―日本と海外の雲泥の差に愕然―

めば:  そしたら、カメラのファインダーを通して見て、こちらに持ち帰って見たら、やっぱり日本と外国の薬物依存の施設っていうのは、雲泥の差なわけですね。
 イタリアで神父さんがやってる薬物依存の共同体、そういうのがあるんですね。自給自足で、トラクターをつかって農作業したりね、施設の中に、巨大な敷地の中に動物園があってね、がちょうがいて馬がいて、それを薬物依存者が世話してたりとか。イタリアなんかは、精神障害者・・・85%が薬物依存者ですけど、あとの15%は精神障害の人、あとレバノン難民とかボリビアの難民とかそういう少年たちと一緒に陶芸をしたり、ろうそく工場を持ったり、結構楽しくやってるんですよね。それを見て、日本の若い人たち、薬物依存の人たちっていうのは、これは人間扱いされてないと。どう考えたって、ね。

 スペインのひとつの施設行ったときに、わたしを案内してくれたのは、ほんと20代の若いヘロイン中毒の女性だったのね。で、その女性はその施設でもう3年目のプログラムをやってる。「プロジェクトオンブレ」っていう古くからの施設があるんですけども、プロジェクトオンブレで3年目のプログラムをやってると。

 1年目は、親が手を引っ張ってマドリッドにある施設に毎日毎日通うわけ、1年間ね。2年目は、スペインの郊外の、ものすごい田園風景のきれいなとこでね、プールがあって、そこでみんなで自給自足の生活をしながら、農作業したり、今度は厳しい規律を持ってね、やるわけですよ。今度は青年期を過ごすわけね。最初は子供時代をもう1回やり直して、2年目は青年期をすごす。3年目は、どうするかっていうと、マドリッドに帰ってきて、今度はまた勉強しなおしたり、大学へ行こうという人もいるし、就職活動をするために、勉強を1年間するのね。しながら、1年目の人たち、まだビギナーのクスリ止め始めたばっかりの人たちのお世話をするわけですね、ボランティアでね。

 で、私たちみたいな訪問者が来たら案内してくれたり、そんな仕事もしてるわけですね。で、その女性が言ったのは、「私は今イベリア航空のスチュワーデスの試験を受ける勉強をしてます」と。「私がもしイベリア航空のスチュワーデスの試験に受かったら、このプロジェクトオンブレという施設にスペイン政府から助成金が出るんですよ」と。つまりその施設はそういう若い人を更生させて、スチュワーデスの試験をパスするような、そういう・・・要するにまた再生させた、と。そういうことで、政府から金が出るんだとね。

 今日本で・・・日本の、ダルクなんかにも若い人いっぱいつながりますけども、全国で今24ヶ所あって、ダルクができて10数年になりますけども、やっぱりたくさんの人が死んでるのね。ダルクにつながっても。クスリを再使用して死ぬんならまだ分かるんですよ。その中にはね、クスリ止まったまま電車に飛び込んだりね、ビルの屋上から飛び降りたり・・・。

―必要なのは本当の意味での社会的支援―

めば:  こないだもありましたよ、1ヶ月くらい前ね。悲しい死が。ダルクっていうとこは薬物をやめることはできる。だけど次の社会支援がないから、職安とか新聞見て面接行って、ぱっとね、雇われて上手く行く人もいます。だけどやっぱりそうじゃない人もいっぱいいて、当然今のような時代ですから、なかなか仕事が見つからない。だからクスリを止めたら、みんな頭の中はクリアですから、いろんなものが見えてくる、現実が見えてくるわけですね。その時に、やっぱり行き場がない。

 こんな人もいます。やっと半年クスリ止まって、家族のとこへ帰った。でも、親は変わってない。相変わらず私をコントロールしようとする。口うるさい、ね。クスリ止めて半年なんだけど、その格好は何だとかああだとかさ、ああしろこうしろと。でやっぱり絶望して家で首つっちゃったとか。やっとダルクでクスリ止まって家に帰したら首つっちゃった、ね。そういうことがあって、ダルクの次のそういうものがなかなか、ないんですよね。社会支援が。ダルクのようなものだけあっても仕方がない。

 もっといろいろ作り出していかなきゃいけないという、まあ何ができるのかというのは分からないんですが・・・。そこで、フリーダムっていうのを作って次に何ができるのかなっていう、まあこれからやっていこうかなっていう所なんですね。

―シンナーとの出会いと、深まる付き合い―

めば:  話は飛びましたけど、スペイン行って見てきて、その帰りの飛行機の中で思ったのは、自分のためにやろうと。自分の人間関係の回復のためにやっぱりダルクをやろうと、その時思ったんです。私はやっぱりクスリ止まってたし、カメラマン・・・手に職があったんで、外で仕事もしてたけど、やっぱり自分がもっと良くなろうと思ったら、やっぱりやった方がいいんじゃないかなっていう、そういう結論に達したんです。それで始めたんです。
 私には、ひとつ、資格があった、ダルクをやるね。それは自分が薬物依存者であるということでした。

―薬物依存者としての「めば」―

めば:  実際、あれから18年ぐらい時間が経って、私の今回りに起こってることっていうのは、精神病院の中で思い描いてた、何倍ものことが現実になってる。だから、自分が病院の中で夢に描いてたことよりもっとすごいことが起きてるなんて、信じられない。でも実際そうなんですよ。まさか私が大学に来て講義をしたり。1000人や2000人くらいの人の前でしゃべったこともあるし、あるいはスペインやアメリカへ、いろんな外国に行く羽目になろうとも思わなかったしね。

 パリで、薬中の世界大会っていうのがありましてね、6000人ぐらいユーロディズニーランド借り切ってですね、世界中の薬中が大会を開くわけですね。「えーっ?」ていうとんでもない世界が、今目の前で広がってて、信じられないですよね。だからもう別に薬物依存症になってね、自分が・・・後悔なんかしてないですね。

 もう1回生まれてもまた薬中になってもいいな、と。おもろいなっていうぐらいに、やっぱり自分自身を、やっと肯定できるようになったんじゃないかな、っていう。それまではやっぱり自分をずっと否定して生きてきたんだろうな、って思います。

 「拾い集めたことばたち」っていうレジュメを配りました。自分で思ってることもあるし、いろんなとこで聞いたこともあるし、アメリカの薬物依存のリハビリテーションセンターで聞いたこともあるし・・・、まあぱっと頭に浮かんでることを並べただけのことです。何かお聞きになりたいことがありましたら、またどうぞ聞いていただきたいと思います。まあ、15分前ということでしたんで、ちょっとあちこちとんだお話になってしまいましたけど、どうもありがとうございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・拍手・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

―質疑応答―

ゆき:  感動しながら、目を開かせてもらいました。どんな質問でも結構ですから、早い者勝ちです。どうぞ。はい、どうぞ。

竹端:  よくこういう依存の話をしたときに、家族関係が理由だ、とか、家族に理由付ける、短絡的に理由付ける人っていると思うんですが、めばさんはどれくらい家族に理由があるというふうに・・・、家族関係が理由だと思われます?もう全然関係ないと思われますか?

めば:  うーん、自分が薬物依存になった犯人探しをする時に、やっぱり家族だっていう風に思うの・・・、そういうのアダルトチルドレンっていうのが・・・、とかね、そういった概念が結構一般的になってて、本なんかも出てて。

 だけどね、例えばまあ摂食障害ですとか、アダルトチルドレンとか虐待の問題ですとか、引きこもりの問題だとか、そういう・・・、まあ他のアディクションに関連する問題と比べると、アルコール依存とか薬物依存っていうのはね、仮にその犯人が家族であっても、「家族関係を調整すれば薬物依存症は解消する」というふうには思わないですよ。というのは、いくら思春期の時の家族病理に根ざしたことが原因で、依存症が発生したとしてもですね、じゃあ家族関係を何とかすれば薬物は止まるかっていう・・・、もう手遅れなんですよ。

 っていうのは、時間が経つうちに私とシンナーとの関係が病気になってるわけですから、根っこが家族病理だとしても、今治療しなきゃいけないのは、薬物と私の関係をまず治療しなければ、どうにもならない。だからすりかわってる訳ですね。思春期の病だとか家族病理が、物質依存っていうのとすりかわっちゃってるわけですよね。だからよくね、「家族何とかしなきゃ」っていうことをおっしゃる方いるんだけど、まず薬物依存をなんとかしないと・・・。

 で、そのあとですね、何年もたってから私は自分の家族の問題、あとジェンダーの問題・・・、ひとつひとつ深いところに入っていくのは、薬が止まってしばらくたってからじゃないと、やっぱりすごく難しいかなと思うんですよね。だけど非常にこう、重いトラウマを背負った人たちが中にはいて、それは性的な虐待であったりとか・・・、家族の中でね。そういった人たちへの対応っていうのはほんと難しくて、もっと医療と一緒にやっていくとか、そういうことが必要だと思ってるんですよ。だけどなかなかね、まだそういうのを一緒に解決していくっていうのはね、現状ではね、特に大阪ではものすごい難しくて、日々悩んでる。

 犯人はほんとは家族病理なのかっていったら、多分そういうものはすごく大きいと思うんですよ。大きいけども、それを問題にしたところで解決にならない。それは知っとかないと、まずいと思うし。だけど家族の方で相談に来られて・・・、10代の若い人たちとかね、そういう人たちの場合はですね、一方で家族っていうのはすごい大事やと、ね。シンナー吸い始めて1年とか、高校生だとかそう人たちっていうのは、本人にアプローチするより、家族にまずアプローチした方が、ひょっとしたら本人のクスリが止まるかもしれないっていうのがね。そういう意味ではそんなにひどい依存症にはまだなってないね、そういう人たちは、まあそういうやり方もある。人によってちょっと違うんじゃないかな、とは思いますけどね。はい。

めば:  他にどうでしょうか。時間は限られてますから。はい、鈴木さんから。

鈴木:  えーと、この「拾い集めたことばたち」っていうのは非常に興味深いものが並んでるんですけど、4つぐらい聞かせてください。

めば:  はい。

鈴木:  8番。「私にとって薬物とは言葉であった。」っていうところの、「言葉」。で、「言葉が回復すれば自分を取り戻すんだ」っていうところを教えていただきたいのと・・・

 次は11番。「関係病だ」っておっしゃってますけど、この「関係」っていうのをちょっと詳しく教えてください。

 それと14番。「肉体→セックス→思考→感情→スピリチュアリティ」の「スピリチュアリティ」っていうのはちょっと分かりにくいので、これも・・・。

 それから、15番ですけど、「人の話を聞くのは大嫌いだ」とおっしゃってましたけども、人が回復するにはその90%が人の話なんだと、聞くことなんだと、いうふうにおっしゃられる、もうちょっと詳しく教えていただきたいんですけど。

―薬物依存の人がことばを取り戻す作業―

めば:  はい。最初8番でしたね。私にとって薬物・・・、リストカットも含めてなんですけど、それはさっき言ったようにですね、母親にほんとに言いたいことがある、父親に言いたいことがある。父親は私が子どものころお酒を飲みながら説教した。私が思ってたのは、「お前みたいな酒飲まなきゃ説教できないような親になりたくないわ。わたしは薬物やるで。」って思ってたんですよ。実を言うとね。まあ、その時に「なんでお父ちゃんはいつもお酒飲みながら説教すんの」、と。「しらふで言うてやって」いうふうに私が言えてたら、シンナー吸わなくて済んだんじゃないか。私が酒飲みながら私に説教する父親のウィスキーのボトル取り上げて、叩き割って首元につきつけてですね、「いいかげんにしろ」と言えてたら、シンナーは必要じゃなかったんじゃないか。やっぱりそういうこと今すごく、私は思うんです。

 薬物依存の人たちっていうのは自分の言いたいことが言えない。自分の感情とか、自分の思ってることっていうのはちゃんとストレートに言うっていう・・・それが、対人関係の中で、できないっていう部分がすごく大きいと思うんですね。

 だから、ダルクなんかでは、ミーティングっていう手法を通して人の話を聞く。ミーティングのテーマに沿って・・・、そういうやり方なんですね、グループのやり方はね。で、そういうことをやってる中で、少しずつ自分の中に言葉が戻ってくるわけですよ。だから、正直に自己表現が出来るようになるわけですね。だから薬物で自己表現しなくていいようになって来るわけですね。まあそれが「言葉を取り戻す」ってことだと思うんですね。

 それは15番目の「回復の90%は人の話を聞くことによってもたらされる」っていうことにも関わってくるんだけど、私が最初にいたのはアルコール依存症のグループですけど、行ったときね、ほとんど自分の話なんか出来なかったですよ。当てられても、30秒もしゃべれたらいいとこだったんですよ。自己紹介して、「はい、がんばります」とかね、「明日も来ます」とかね。そんなことしか言えなかったんですよ。ほんとにね。18年前は。だけど何で今こんなにね・・・原稿もなしにべらべらべらべら、しゃべるようになったのかなと、自分でも不思議でしゃーないんだけど、よく考えたらね・・・。

 だいたいミーティングは1時間から1時間半なんですよ。そこにまあ10人から10数人の人が集まってるんだけど、司会の人がテーマを出すわけですね。「薬物依存は病気である」、「家族」っていうテーマが出る場合もあるし・・・、まあいろんなテーマが出されて、で、人の話をとりあえず聞いてるわけですよ、人が話してる時は。ちゃちゃ入れたらあかんのですね。「それはちゃうで」、とか。後からいうてもあかんわけですよ。言いっぱなし聞きっぱなしなんですね。10人いて60分の時は、6分間は自分でしゃべるかもしれないけど・・・、後の50何分かはじっと黙って人の話を聞いてなきゃいけないわけですね。で、これを1日3回やるわけです、大体ね。朝昼晩、プログラムっていうのはね。1年365日あるわけですよ。

 私、精神病院を退院して、最初の1年間の間に、じゃあそういうグループミーティングに何回でたか、365×3ですよ。千何回ですね。これとんでもない数なんですよね。もう仕事もしないで、朝昼晩ミーティング、日曜も正月もお盆もなし。これをひたすらやった。そしたら、いろんな人の・・・人の体験談まで分かるわけですね。しょっちゅう顔合わせてる奴、「次にこいつは酒飲んでこうなって入院すんねや」って頭の中で分かってるんですよ。マニュアルを教えられるんじゃなく、いろんな具体的な話がこびりついてるわけです、全部。人の話が。で、そこからですね、自分と共感できる部分、違う部分もあるけども、自分自身のことも少しずつ・・・。

 あと、こんな恥ずかしい話・・・、50過ぎのね、紳士のおっちゃんが酒飲んでマスターベーションしてたとか、そんな話を聞いたらですね、「こんな紳士的なおじいちゃんがこんな話をしてはる」、と。「若い私が話して恥ずかしいわけがない」、とね。やっぱりそういうふうに思ってしゃべれるようになるってね。

―人の話を聞くことによってもたらされる回復―

めば:  だから「回復の90%は人の話を聞くことによってもたらされる」っていうのは、まさにね、1時間なら1時間のミーティング、10人いた時に、9人・・・、9割の時間は聞くということに費やされるということね。薬物依存症とかアルコール依存症の人は、人の話っていうのを聞くことが出来ないんですよ。右から左なんですね。私も聞くこと出来なかった。だけど出るうちに、聞くっていうことができるようになった。

 あと、テップっていうのがあってね、生まれてから今までのことずーっと書いて、ノート・・・、わたしも大学ノート3冊か4冊分ぐらいになったけど、これをある1人の人に話すというプログラムがあってね。6時間ぐらい自分の話をずっと生まれてからのこと話すのきたことがあるの。人のそういう・・・、「聞いてください」っていわれてね。20時間じっと黙って、1人の薬中の体験を・・・、生まれてからの体験をね、聞いてなあかんのわけですよ。もう眠たいですよね。もうわたし、鏡出して・・・、「眠たくなるからお化粧するわ」とか言いながら、そんなん聞いてるんですが、そうでもしないとね、もう眠たくて、ワントーンですからね、聞いてられないですよね。

 でも聞けるようになった。やっぱり20時間18時間、そういう薬中の話を聞いてるとね、家族の2〜3時間の「うちの子どもがどうのこうの・・・」、そういうの簡単に聞けるんですわ。それぐらいやっぱり聞けるっていう、ね。で、聞けるっていうことはすごい自分にとって回復なんだろうなっていう。聞くことによってしゃべることができるし、聞くことによって人というのを受け入れることができるしね。自分と違っててもただ黙ってとりあえず「聞く」ということ、だと思うね。

 で、後は「関係病」ですね。薬物依存っていうのは薬物と私の脳なり体との関係が病気になってるわけですね。一方でね、薬物依存っていうのは単純にシンナーならシンナー、覚せい剤なら覚せい剤っていう物質と私の体との関係だけが病気になってるだけじゃなくて、薬物を使うプロセス・・・、まあシンナーだったらシンナー買ってきて、ふたを開けてビニール袋ふーって膨らましてそこへどこどこどこーって入れて、ぴゃーっとこう吸うっていうね。その行為・・・、その行為、プロセス・・・、買ってきたり、部屋のセッティングですとか・・・。部屋で吸うときはね、指定席っていうのがあってね、4畳半の中にも指定席っていうのがちゃんとありましてですね、窓際でこう空けて、冬場でも火事にならないように扇風機をこう回してですね、セーターを5枚くらい着こんで引火しないようにして、で、おこたに足だけ突っ込んでやると。そういうことがですね、その「行為」ですね、とにかく。薬物を使う行為・・・。

 タバコでもそうでしょう、タバコはただ煙を吸うというだけじゃなくて、ライターを・・・、こう火つけて、やっぱりそう依存から・・・、それを毎日毎日何本もやってるわけだから、なかなかやめられないっていう話を聞いたこともあるけど、薬物っていうものもね、おそらくそういう薬物そのもの・・・、まあ「セット」と「セッティング」っていう言い方しますね。「セット」っていうのは薬物そのもので、「セッティング」っていうのは部屋の雰囲気とかの売人のとこ行ったりとか、そのセッティングの部分ですよね。その部分にもすごく依存してるわけですよね。で、まずセッティングの部分との自分の関係を変えていかないと、薬物っていうのは止まらないですね。

 いつも西成に覚せい剤買いに行ってた人が、「いやもう大丈夫だ」っていってやっぱり西成うろうろしてたら欲求が入ってよくやっちゃったり、そういうことありますよね。ですから、いろんな関係があってですね、それをひとつひとつチェックをして変えていくっていう・・・。

 もちろんそこには、親子関係とか家族関係とか、そういう関係も含まれると思いますね。だから、アディクションっていうのは自分ひとりで・・・、薬物依存って薬がなきゃ薬物依存にならないわけですし。

―泣いたり怒ったり笑ったり―

めば: あと14番目ね。これはヘーゼルデンっていうね、アメリカの50年以上もある・・・、ミネアポリスっていう所にあります、私も行きましたけどね、数年前にね。そこで講義を受けたときにね、聞いた話ですけども・・・。まあ、最初体が良くなって、性機能が回復して、でいろいろ考えられるようになって・・・。その次は怒ったり泣いたり笑ったり、っていうようなことが・・・。薬が止まって頭では分かってても、やっぱり泣いたり怒ったり、そいういことがちゃんと表現できないと・・・、なかなかね、できないんですけども。

―スピリチュアリティって何だ?―

めば:  で、次のスピリチュアリティっていうのがね。これはずっごい難しいですね。私もね、言葉で・・・、「じゃあひと口で表現しなさい」っていうふうに言われても、とても難しい。

 だけど、私たちのプロぐラムの中にはハイヤーパワーっていう概念があるんですよ。ハイヤーパワーっていうのは自分を超えた力によって救われるっていう、まあ非常にこれ宗教がかってますよね。宗教がかってるけれども、自分で理解した神でいいんだと、ね。それはね・・・。

 やっぱり薬物とかアルコールっていうのはほんとに神にも匹敵するような、私にとっては力を持ったものなんですね。で、薬物を止め始めた頃ですね、すごく回りに仲間がいて、自分の相談に乗ってくれる人がいて・・・。だけどその人を100%信じて、その人にもたれかかって、その人のおしりにくっついて、その人だけ信じて・・・、でもその人だってまた薬を使う可能性だってあるわけですね。その人が倒れたり、その人が亡くなったり、その時に私はまた支柱を失ってまた薬に戻っていきかねないっていうかね。ですから特定の生きてる人間をハイヤーパワーっていうか、もたれかかって止めようとしてはいけないと。

―目に見えない不思議な力を信じてもいい―

めば:  だから目に見えない不思議な力、そういうものがあるんだよって、人間の営みの中にはね。「そういうものがあるんだよ」って、そういう言い方よくしますけどね。私はまさにそうだと。だから特定の物や特定の人物や、そういうものでなくて、だけどその背後には何かすごく大きなものがある。まあそれはある人にとっては神だろうしね、ある人にとっては宇宙だろうし・・・、それは何かわからない。

その人が、「あ、感動的だ」って思うふうなことだと思うね。 私がさっき言った高校の頃の友達から電話がかかってきた時に思ったのが、これはスピリチュアルだと思ったよ、やっぱりね。「これは何かスピリチュアルな出来事だ」っていうふうに思ったし、何がスピリチュアルって感じるかは人によって違うと思うんですよね。

ユングという人がアフリカに行ったときにですね、アフリカの・・・、言ったらまあ原住民ですね、まあ太陽を崇拝してる。で、「太陽は神なのか」って聞いたら、「太陽は神じゃないんだ」ってね、原住民は言ったそうですね。「地平線から太陽が昇るそのことが、神なんだ」と。「太陽そのものじゃなくて、太陽が昇っていく動き、それが神なんだ」っていうふうに言ったって言うんだけど、すごく私分かるね、それね。何かその・・・、だからこれ一言で説明するっていうことはすごく難しいことだとは思うけど、特に日本語でね。 だけどすごく大事だと思う。やっぱりこれが感じられないと、止めていけないと思うね、私は薬物っていうのはね。そういうふうに思います。まあ、「人間的」っていうふうに訳す人もいます。

ゆき:  質問が院生さん2人だけじゃ不公平なので、学部生さんどうぞ。

―自分を変えようという過程はどこにあるのか―

学生:  あの、さっきおっしゃってたように、さみしさみたいなものから薬物に手を出したりする場合もあると思うんですけど、あとそれとはまた違ったやつで、快感を求めて手を出す人たちも多いじゃないですか?特に今若い子で、キスしたりセックスなりに使ったら気持ちよくなるとか・・・。だから僕の周りでも、友達の子が古着屋の店員やってて、そこなんかやったら、普通に割と手に入るから、それでみんなやってるよ、とかってファッションの感覚でいうてますし。

 でも、話を聞いてる限り麻薬を使ってるっていうその状況を次第に嫌悪するようになって、だからまあ逃れようとしていくんだと思うんですけど・・・。だから結局まあ違う形で入った人は結局まあ行き着くところは一緒で、結局だから麻薬やめようやめようやめようっていう方向に本人は思うようになるのかなっていう感じはちょっと話を聞きながら考えてたんですね。

 で、じゃあまあそれやったら一体どの辺から最初は麻薬を快感のために使って、どっちかっていったら嫌悪も何も抱いてなかった人が、結局セルフヘルプグループに参加するまで、自分を変えよう変えようって思って行く過程は、どういうのがあるんかなあと思って。ちょっと・・・?・・・で悪いんですけど。

めば:  これはアルコール依存症の施設とかでもそうやし、薬物依存症の施設やグループでもそうなんですけど、最初の頃の人っていうのは重い人が多いんですよ、まあ私もそうやけど。あらゆる意味で。重たい人が多い。ヘビーな人、何回も精神病院入ったり刑務所入ったり、使い方もヘビーだったり、体験もヘビーだったり。

 だけどね、5年10年15年って経つにつれて、だんだん底が浅くなってくる。前は、スケールでいったら10ぐらいまでいかないと、ダルクとかNAに来なかった。だけどやっぱり最近はまあ5か6ぐらいで、来るようになった。それは知られたっていうこともあるし、この方法でよくなってる人がいるってことが伝わったってこともあると思うしね。それでもやっぱりすごく難しいと思うね。「どん底」なんていっても分からない、ね。なかなか、その、20代・・・。私たちの頃は底をついたからね。後は良くなっていくしかないんだ、みたいな感じだろうけども。どんどんそれが年齢が若くなってきて、精神病院にも入ったことがない、警察にもつかまったことがない、でもクスリに問題があるっていうふうに・・・。

―裾野が広がることの重要性―

めば:  その家族が先行してFreedomなんかに相談にきてつながってくる人たちがいるっていうか。どんどん底が上がってきて軽くなってきてる、でも、増えていくっていうね。広がりがね、裾野が増えてくっていうね。そのことすごく大事だと思うのね。で、そういうダルクのやることは再発予防、薬物に手を染めた人が二度とクスリ使わないで生きていくために、こういう場とかプログラムが用意されてるわけですけども。

―予防教育も必要だ―

めば:  一方で、予防っていうのがあると思うんですよね。まだ全然薬物を使ったことがない、特に子どもたち・・・、小中・高校生に対してですね、予防教育・・・、まあこれは教育の仕事なんだけども、予防教育というものがあって、で、再発予防ということと予防ということが全然ですね、繋がりがもたれぬまま今まで語られてきてるけども、再発予防の裾野がどんどん広がって、底が浅くなって来れば来るほどですね、もっと予防と近づいていけるんじゃないかなっていう、予防教育とね、どっかでね、接点を見出していけるんじゃないかなっていうふうに私は思うんですよね。

 予防をちゃんとやるっていうことは薬物依存症は何だ、薬物依存症とはどういうものかって、そういう情報を提供することだし、「やらないほうがいいんだよ、薬物なんかやらないほうがいいんだよ、誘われたときはこうして断るんだよ」とか、そういうマニュアルを教育することも大事だけど、一方で一旦もし自分が使ったときにどこに助けを求めたらいいのか、ちゃんと助けてくれる、話を聞いてくれる、そういう場があるんだというね、それを予防教育の場でちゃんと子どもたちにちゃんとメッセージしとく必要があると思うんですよね。
 でも、今はまだ高校なんかに私呼ばれても、校長先生が「スカートは困る。ズボンはいて来い」とかそんなこと言われる、まあそういう段階でね、まだ「クスリの怖いとこだけをしゃべってください」とか、「寝た子を起こさないで下さい」とかね。だけどまあその程度だけど徐々にそういう教育現場に私たちのような経験者が呼ばれてね、子どもの前で話するっていう機会は、関東とかよそは増えてる、大阪は少ないけどね、でもそれすごい大事やと思う。私の話一番熱心に聞くのは、高校生ですわ。私の話一番伝わるの高校生だと思ってます。

―エンディング―

ゆき:  残念ですが時間です。もっと知りたい、っていうことがあれば、フリーダムで出してらっしゃる資料は買うことは出来るし、読むことはできるんでしたっけ?

めば:  はい。できますし、あとね、インターネットのホームページで大阪ダルク、今度大阪ダルクとフリーダムとホームページ分ける手続きをしてますけど、まだ大阪ダルクで検索していただければ、大阪ダルクのホームページを開くことが出来ると思います。
 いろんな専門家の方もここ書いてくださってるし・・・。そこから本も注文出来ます。

―おまけ〜めばさんのスカート姿に迫る〜―

ゆき:  みんな、めばさんのスカート姿のこと聞きたいかしら? 私、めばさんが女性にご関心があるっていうのは今日初めて知ったんですけど、そういうものなんでしょうか。女性の姿をされるってことと、女の人をお好きっていうの・・・。

めば:  わたしはトランスジェンダーですが、どちらかというと性的には女性のほうが好きです。

ゆき:  全く無知蒙昧な質問で恐縮です。こんな風にして、これから半年間授業を続けたいと思います。私の授業は試験はしません。ただ、お手元の用紙に、きょう発見したこと、感じたことを書いてくださいね。でも、それを仔細に見てA・B・C・Dなんて点をつけるようなけちなことはしません(笑い)。

 単位にならないモグリ聴講の方もおおぜいきておられるようですが、その方々も、めばさんのお話を聞いてこういうことを感じた、こういうことを発見したっていうことを書いて置いていっていただけると嬉しいです。コピーしてめばさんに差し上げたいと思います。なによりの感謝の気持ちになりますので。
 めばさん、ほんとうに、ありがとうございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・拍手・・・・・・・・・・・・・・・・・・

めばさん
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