次世代に残すケア文化の模索 加藤忠相さん(株式会社あおいけあ 代表取締役社長&こま使い)  介護事業者の立場から、地域包括ケアの在り方を考える前にあたりまえのことを確認しておかなければならない。 「介護の仕事」はなにをするべきかである。 いまだに「療養上のお世話」と勘違いしている事業者が多いのではないだろうか?1963年の老人福祉法には確かにそのように記述されている。しかし2000年の「介護保険法」には療養上のお世話ではなく第2条第2項や第4項にあるように「自立支援」をするべきと明記されている。つまりいまだに療養上のお世話だけが仕事だと思っているのでは介護保険料を請求する資格がないのではないだろうか。  それは世界各国で大統領や首相が先頭に立ちプロジェクトを推進している認知症についても同じである。「お世話をする」という意識ではCAREが後手にまわるため、表層的に「認知症で困っている」人たちが「困ったひと」にみえてしまう。 介護職がするべきは、対象となる人の人となりや職歴などを十分に理解した上で環境心理状態を整えて「こまっている」人が困らないように寄り添うことが出来るプロであるべきだ。そのためにはプロアクティブ アプローチ ケアを行うことを意識した環境つくりをしていけばよい。困ってしまう環境に押し込めて「こまった」と言っているのであるならプロなどとはいえない。 ケアプランとその実行についてはこれまでのような欠損部分にアプローチする手法はあまり意味がない。歩けないから歩行訓練、認知症だから見守り…ではストレス状態からホメオスタシスに近い状況に持ってくるためのゴール設定が遠すぎるからだ。 逆にその人にストレングスに働きかけるCARE を意識したものを提供することにより感覚を視床でうけとめた際の情報が「快」であれば視床下部からセロトニンやドーパミン、オキシトシンなどの幸せホルモンが分泌されるため欠損部分も補うような結果が得られることが多くみられる。たとえ認知症があったとしても高齢者は一方的に支えられる存在ではなく社会資源になることができる。それを支える介護という仕事は本当にたのしい。 ◆◇◆  弊社ではグループホームや小規模多機能型居宅介護など地域密着型サービスといわれる市町村に指導監督権限が分権されているメニューを提供している。 「地域密着型」とよばれる以上は高齢者だけを見ているのではサギである。高齢者をハブにして地域とのつながりをどれくらい構築できるかが重要になる。とくに核家族が多い神奈川県藤沢市においては、子どもたちがお年寄りのスキルに触れることはとても大切だ。 しかし、わざとらしい世代間交流は必要ない。 施設の塀をなくして通路(私道)をとおすだけでよい。 CAREの質が担保されていればお年寄りは困っていない高齢者であるから玄関に施錠をする必要はない。中庭でも施設内でも子ども達はは入り込み当たり前の交流が生まれる。 大型施設に勤めていたころ「慰問」と称して保育園や小学校の子どもたちが歌を歌いにきてくれたことがあった。スタッフは涙を流しながら拍手をするお年寄りを見て満足そうだが、私の経験上ではその後にその子どもたちが遊びに来てくれた経験は一度もない。せいぜいお手紙が届くくらいだ。そもそも自分が高齢者になった時に私であれば一方的な慰問などされたくはない。 大人として子どもたちに何かをしてあげる立場でありたい。いまの介護に足りないものは「自分軸」ではないだろうか。白い大型バンに「〇〇園」とか、緑色の顔が描かれた「○○財団」と書かれたクルマが自宅の前に横付けされて、あなたはそれに抵抗なく乗り込むのか?私だったら御免こうむりたい。年齢を重ねても歩くのが辛くっても社会の役に立つ人でありたいし社会の一員として生きていたいのではないだろうか。 ◆◇◆  学校帰りにおばあちゃんたちに「柿の葉茶」の作り方を教わっていた子どもたちは地域行事でお店番をかってでた。数年後、「今年からおばあちゃんたちの店はやらない!僕らの店をだすから〜」と独立した子どもたちは大人に何も言われなくとも売り上げを被災地に寄付していた。地域包括ケアをかたるときの思うのだが「明日から支え合える地域はない」のである。10歳くらいのこの子どもたちが、5年10年…たったときに偏見のない地域の核になる青年になっていく。地域密着介護事業所は高齢者を世話する施設ではなく、高齢者と値域を練るための装置でなくてはいけない。  それが前提になってくると「専門職が社会的弱者の高齢者を看る」というのがいかにおかしなことかわかってくる。 介護職とお年寄りは地域をデザインする仲間であって「看る:看られる」という関係ではない。介護に限らず、医療やセラピストも同じで「私は専門職です」という鎧を脱げないプライドの高い高慢ちきに地域包括ケアなど無理だろう。主体は住民であるのだから住民として関わるのでなければ相手にされない。たとえば「新年度だから小学校に雑巾を縫ってプレゼントをしよう」となった時に、スタッフはおばあちゃんたちの技術に圧倒される。とくに介護職にとってはこれが一番のモチベーションに繋がるのではないだろうか?「おじいちゃんが〜を教えてくれた!」「おばあちゃんが〜できた!」というのがうれしくてしかたがない人種が多いのが介護職だからだ。 介護の専門学校を志望する子どものなかで「介護でひとつ儲けてやろう!」というのを見たことはない、たいていの場合は「人の役に立ちたい」である。報酬は上がるに越したことはないが1万円あがったら介護職が増えるなどとは到底思えない。現状の問題は報酬ではなく現場だとおもう。 人の役に立ちたいという優しい人たちがお年寄りの支配管理のような仕事をさせられれば「こんなはずじゃなかった…」とやめていく。必要なのは優しい人達が優しさを発揮できる現場が少なすぎる事ではないだろうか。 ◆◇◆    介護現場から見て地域包括ケアのありがたいところは、介護の仕事たる「自立支援」を地域に持ち出せばお年寄りが社会資源として活躍できることにある。施設で掃除をしていれば自立支援だが公園や神社で掃除をすると社会活動、庭でお花を植えていればレクレーションだが公園や市民病院の花壇でお花を植えればボランティアである。外に出れば関わる地域の人たちが増えていく。子どもたちが店を出した時に手書きのチラシを学校にたくさん貼り、先生たちもお祭りにやってきた、もちろん友達やご家族もである。  介護の在り方、医療の在り方もそうだし、社会保障の継続など多くの問題があることを頭では理解しているのだが、いまCAREに携わる私たちがしなければいけないのは、「50年後を生きる世代にどういうケア文化を残すか?」ではないだろうか。人口が激減する将来世代に多額の負担を残さないための手段と目的の共有化に取り組まなければならない。それこそがもとめられる地域包括ケアシステムの姿であってほしい。