優しき挑戦者(国内篇)

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(47)煙の上にも30年、そしていま

■「日照権」から生まれた「嫌煙権」■
「嫌煙権」の名づけ親、中田みどりさんと嫌煙マーク

 タバコの煙に悩む人たちが、「嫌煙権」を合い言葉に、1978年2月18日、東京・四谷の小さな会議室に集まりました。
 職場やレストランはもちろん、病院の待合室や健康を審議する厚生省の会議でさえ、吸いたい放題だった時代です。
 線路に大量の吸い殻が捨てられ、駅員が清掃する姿をよく見かけました。駅の柱には、灰皿代わりに空き缶がくくりつけられていました。

 「嫌煙権」という新語の生みの親は、まだ25歳だったコピーライターの中田みどりさん(写真)。コンシュートピア創造群という小さなデザイン会社で働きながらボランティアとして公害の絵本作りにかかわっていました。
 「同僚は全員がヘビースモーカー。くわえたばこがデザイナーらしくてカッコいい、というイメージで、新米の私が、『吸わないでください』なんて言える雰囲気ではありませんでした」

嫌煙権運動が始まる少し前、コンシュートピア創造群代表 杉浦和さんが描いた「対立」を避けるコンセプト

 当時、日照権という言葉が生まれていました。
 みどりさんは、「たばこを吸わない人が、自分の体を守るために権利を主張してもいいのでは」と考えて、「権」という文字の入った言葉をあれこれ考えました。
 「遠煙」「排煙」……。その中から覚えやすい「嫌煙」を思いつきました。

 ヘビースモーカーだった先輩の藤巻和(しずか)さんは、スモーカーとの摩擦を心配して、犬と猿を向かい合わせた愛嬌のあるイラスト(図)を描いて応援してくれました。
ヘビースモーカーから転身した嫌煙権確立をめざす人びとの会の代表世話人、渡辺文学さん  「嫌煙権確立をめざす人びとの会」の縁の下の力持ち、渡辺文学さんも、36歳まではハイライトを毎日4箱から5箱吸うヘビースモーカーでした。
 そんな自分が「公害反対」を訴える資格があるだろうかと矛盾に目覚めました。そして、プッツリ禁煙。いまは「禁煙ジャーナル」編集長です。

 「僕は愛煙家と思っていたけれど、タバコという麻薬から逃げられない哀煙家だった。世を惑わす『愛煙家』という言葉をなくさなければ……。」

■夫がヘビースモーカーだと、妻が肺がんに!■

 旗揚げの反響は想像以上でした。
 電話は応対できただけでも、一週間で330本、手紙は束になって届き、1週間で370通。「職場では言い出せず苦しんでいた」など、切々と訴えるもの、激励するもの……。
 チューリッブの花に、赤ちゃんの顔と「タバコの煙がにがてです」という、文字をあしらったバッジも、アッという間に品切れになりました。
 実は、同じ趣旨の「非喫煙者を守る会」が一足先に札幌で誕生していたのですが、北海道の中の運動にとどまっていました。言葉の威力は凄いもので、「嫌煙権」は、たちまち全国に広まってゆきました。

 強い援軍が、国立がんセンター疫学部長だった、故平山雄さんの調査結果でした。平山さんは、1965年秋から、29の保健所管内に住む40歳以上の26万5818人を追跡調査していました。その分析から、夫がヘビースモーカーだと、妻の肺がんによる死亡率が2倍以上になることをつきとめ、1980年10月の日本癌学会総会で発表。
 国際的に反響を巻き起こしました。

■メディア内でも"戦争"■

 一連の動きは、毎日新聞の科学記者、牧野賢治さん(現・科学技術ジャーナリスト会議理事)によって、丁寧にフォロウされ社会に浸透していきました。
 私も、ほんの少し、貢献しました。
 以下は「分煙」という言葉を,メディアで初めて広めた1985年8月17日の朝日新聞一面の大型コラム『座標』の書き出しです。当時の厳しい対立が目に浮かびます。

 これは、まさに「戦争」である。口に出すか出さないかの違いはあるものの、日本全国、津々浦々、両派のいるところ、即、戦場である。私の職場、論説委員室も例外ではない。
 「たばこをやめて長生きしようなんて男は、男じゃない」
 「きっぱりやめる意志の強さこそ、男らしさの象徴だよ」
 「一服のこのやすらぎが分からないなんて、気の毒に」
 「このいやなにおいが他人を苦しめているのに気づかないなんて無神経だなあ」
 「吸わないと、社説の書き出しが浮かばないんだ」
 「キミきような公害に厳しい論客が、たばこ公害にだけ甘いのはおかしい」

医学研究面から支えてきた浅野牧茂さんはタバコをくわえた骸骨のスライドを示してミニ講演

 月日は流れ、2008月3月1日、30周年を祝う会記念フォーラムが東京で盛大に開かれました。
 平山さん同様、医学研究によって理論面から支えた浅野牧茂さん(国立公衆衛生院名誉教授))は,骸骨がタバコをくわえているスライドを示してミニ講演しました。

 嫌煙権訴訟を弁護士として支えた伊佐山芳郎さん(左下)、「日本たばこ産業は麻薬の売人みたいなもの」と高校生40万人に講演行脚して保健文化賞を受けた医師、平間敬文さん(右下、無煙世代を育てる会代表)、自社の運転手の健康を考えて、禁煙タクシーに早い時期から取り組んだ郭成子さん(大森交通社長)が、こもごも歴史を語りました。

※郭さんのリンクをクリックするとパワーポイントの資料がダウンロードされます。

「嫌煙権訴訟」を支える伊佐山芳郎弁護士 「日本たばこ産業は、麻薬の売人みたいなもの」学校行脚して保健文化賞を受賞した平間敬文医師

 この運動が始まった時、新幹線の禁煙車は「こだま号」の自由席に1両だけ。会の最初の活動は「ひかり号にも禁煙車設置を」でした。会の活動をきっかけに禁煙・分煙を求める声は次第に広がり、航空機、列車、駅ホーム、病院、学校などで、分煙・禁煙があたりまえになりつつあります。
 2003三年には公共の場での受動喫煙対策を求める健康増進法が施行されました。名古屋、神奈川、東京など大都市を中心にタクシーの全面禁煙が進み、2007年3月にはわずか3%だった禁煙タクシーの比率は、2008年5月ごろには50%を超える見通しになりました。

ニュージーランドでタバコの箱の表と裏に義務づけられたイラスト例

 問題に気付いた当事者、客観的に裏付ける研究者、メディア、行政、政治のボランティア精神がつながると、社会か変わる、というのが「おゆきの世直しの法則2001」です。
 ところが、この分野については、財務省や政治家に気を使って行政がなかなか踏み出そうとしません。
 多くの国では、たばこ依存症をつくらないために、行政が乗り出すのはあたりまえになりました。
 たとえば、ニュージーランドでは、2008年2月、迫力ある表示が義務づけられました。タバコの箱の表側の三分の一、裏の3分の2に、タバコの害を、写真のような迫力ある映像で示すことになったのです。

大阪ボランティア協会の機関誌『Volo(ウォロ)』4月号より)

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