優しき挑戦者(国内篇)

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写真1  鷹巣町を初めて訪ねたのは1992年3月のことでした。秋田県の北のはずれ、各駅停車の小さな駅を降りると、そこは高齢化の進んだ、もの淋しい過疎の町でした。驚いたのは、この町の福祉の現実でした。
 まず、特別養護老人ホームが、日本の貧しい平均水準をさらに下回るものでした。8人雑居の部屋に「寝たきり老人」と呼ばれるようなご老人が、ずらっと枕を並べておられました(写真@)。
 そんな町が、わずか10年で、「日本一の福祉の町」に変わったのです。

写真2  たとえば、「福祉のまちづくりワーキンググループ」と呼ばれるボランティア組織、その提言で生まれた老人保健施設「ケアタウンたかのす」は、町の、どのホテルより優雅な造りです。居室はすべて一人部屋で広さ12畳、お湯の出る洗面台とトイレが各部屋に付いています。テラスから自由に外に出られます(写真A)。

写真3  このような部屋8つずつが茶の間を取り囲み、お年寄りは起きたい時間に目を覚まし、家族的な雰囲気で朝食をとります。ユニットケアという言葉が日本で生まれる前から、入居社ひとりひとりを尊重するユニットケアが誕生していたのです。
 ところどころに、ちょっとよそゆきの団欒の場が設けられています(写真B)。障子や畳、檜の風呂、掘りごたつもしつらえられています。建設途中で催された「ケアタウン探検隊」での町民の提案も生かされています。

写真4  入所者1.5人に職員1人の配置なので、ひとりひとりの人生を大切にした、ゆったりしたケアが行われています。家族の訪問も絶えません。多くの老健施設が特養ホームの代用品の「終生預かりの場」に使われているのと違い、必要な時だけ利用して、自宅に戻る仕組みです。
 それが可能なのは、送迎サービスやホームヘルパー、デイサービス、補助器具サービスが充実しているからです。訪問ナースの支えがあるので、癌の末期でも自宅で過ごすことができます(写真C)。

写真5  痴呆のお年よりの境遇はどう変わったでしょうか。10年前は、精神病院か、鍵をかけた自宅かでした。いまは、小学校区に一つずつの計画でグループホームがつくられつつあります(写真D)。
 この町では、要介護のお年寄りが実に穏やかな表情をしています。その背景に一般会計からの持ち出しによる人手の厚さがあります。といっても、その額は町の一般会計全体の2〜3%、大騒ぎするような額ではありません。

 鷹巣町が大変貌を遂げたきっかけは1991年4月の町長選でした。6期連続24四年の長期政権の弊害を憂える人々が対抗馬として白羽の矢を立てた岩川徹さんが、319票の僅差)で当選したのです。
 岩川さんは,当選と同時に「福祉のまちづくりワーキンググループ」への参加を住民に呼びかけました。その提案をもとに,保健と福祉の窓口を一つにし、商店街に訪問看護の拠点を店開きしました。

写真6  ヘルパーさんの待遇を役場並みにしました。「女ならだれでもできる仕事」という悪しき常識を破る英断でした。この町では大卒男子がこの仕事を志願する、人気の職種になりました。そういう基盤を整えた上で、1993年、自治体として初めての「24時間対応のホームヘルパー派遣」に踏み切ったのです。
 デイサービスに付きものの子どもっぽいレクリエーションはやめました。食事を選べるように、入浴も入りたい時間に、送迎サービスは県外でもオーケー、といったきめ細かなサービスが生まれました。
 介護保険事業計画策定の委員会には、100人ほどの町民が志願しました。会議はすべて公開されました。「安心できる水準のケアを受けたいから、3880円の介護保険料にしよう」と決め、それをメンバーが地元で説明しました。
 お年寄りだけではなく、幼い子どもたちのための提案もありました。「わんぱーく」(写真E)は、使われなくなった役所の建物を、みんなでペンキ塗りしてできた子育て支援の拠点です。孫とお年寄りが昼寝を楽しんでいたりします。

 忘れられないのが故橋本正雄さん、福井県高浜市の市議会議長を務めた人です(写真B手前)。奥さんの故郷の鷹巣へ移り住み、地区老人クラブの会長をされていました。ワーキンググループが発足すると次第に中心メンバーになってゆきました。
 「個室化なんて贅沢」と町の議会が予算案を否決した時には、5日間で有権者の65%の署名を集めました。個室反対派の議員を選挙のたびに落選させていきました。選挙3度目で、個室化派が12対11で多数派となりました。

 日本の住民運動やボランティアはこれまで、「請願型」「要求型」「告発型」「下請け型」に分類されていました。行政のパートナーとして政策決定に参画する新しいタイプの住民ボランティアが鷹巣で生まれたのでした。

 その鷹巣町が、いま危機に直面しています。岩川徹さんが4期目の町長選に破れたのです。新町長は、「福祉予算を削って土木、商工、教育に回す」「市町村合併すれば特別債1200億が入る」「個室はもったいない」と唱えていた地元病院の岸部陞(すすむ)元院長です。

写真7  そのことに人一倍ショックを受けた女性がいました。阪大大学院で学ぶ韓国からの留学生、文智Rさんです。韓国は日本以上のスピードで高齢化が進んでいます。文さんは、一般会計の3%足らずをを介護保険に上乗せすることで、誇りをもてる、安心できる老後を実現した鷹巣町に注目していました。住み慣れた家で暮らし続けている要介護のお年寄り本人や家族、ケアマネジャーに聞き取り調査をして論文にまとめ、祖国の福祉政策に貢献したいと準備していました。そのお手本の政策が根本から変わるかもしれないのです。
 私も異変の原因を突き止めたいと、この夏、文さんの調査に同行してみました。

 たとえば、81歳になる高橋チヤさん。脳梗塞の後遺症で、食べる、排泄する、入浴する、移動する……生活のすべてに人の手が必要な身です。一方、息子さんは高校教師で昼間は留守。けれど、チヤさんは、思い出いっぱいの自宅で過ごしています。「ホームヘルパーが朝昼晩、訪問ナースが週3回、おフロの出前が週一回訪ねてくる」「趣味を楽しむデイサービスや、車いすを押してもらっての散歩」といったきめ細かな支えがあるためです。
 時々、ケアタウンを利用してリフレッシュします(写真F)
 費用が月60万円ほどになる月もあります。介護保険の利用限度額はチヤさんのような要介護5の人だと月35万円、それを超えた全額と一部負担分をあわせた28万5000円を支払わなければならないというのが、ほとんどの市町村ですから、施設に入るしかなくなります。岩川さんは利用限度額を超えた部分の9割を町の一般財源で保障する、という独自の政策をとりました。チヤさんの自己負担は6万円です。

写真8 写真9
 写真Gは84歳になる明石三吉さん。戦争で片足を失い、脳卒中後遺症も加わって車いすが必要な身になりましたが、自宅は山の中にあり超段差だらけ。ケアマネジャーは、サポートハウスへの転居を勧めました。キッチン・バスつきでバリアフリー。食事や着替えはヘルパーさん(写真H)がしてくれます。デイサービスがそばにあるので淋しい思いをしないですみます。
 国のケアハウスの制度は「ケアが必要になったら出ていかなければならない」不可思議な仕組みです。独自の運営をしているこの町なら最期までここで暮らせます。

写真10  奥さんの方が倒れ、同い年の77歳の夫がケアの柱となっている斉藤夫妻(写真H)、そろって痴呆症になってしまった88歳と84歳中嶋夫妻(写真I)、このとびきりの笑顔は、住み慣れた家に住んでこそのものです。
 このお年寄りたちが、他の町に住んでいたらどうでしょう。。

 「福祉と医療の人間科学」という授業の夏休みの宿題に、私は、「福祉、医療、行政、いずれかの現場を訪ねて、発見したこと、感じたことをまとめてください」という課題を出しました。
 最も多かったのが祖父母が利用している施設を訪ねたもので、どれも悲しみと怒りにあふれていました。典型的な一つ、越石健司君の文章を抜粋します。

<四人の雑居部屋、病院風のベッドと棚が与えられるだけ。仕切りはカーテン、トイレの仕切りもカーテン。私物はほとんど持ち込めない。山の中にあるので、近所づきあいや居酒屋の利用などとはほど遠い。お年寄りの表情はないに等しい。みんなぼーっとしている。強く思ったのは、そこで働く職員さんたちの顔がどうしても生きがいを感じて働いているように感じられなかったことだ。その姿は祖母が寝たきりになったとき、母が疲弊しきって、「どうして私が」という表情を浮かべながら世話をしていた姿を思い出させる。自分の育った町がこんな状況にあるなんて、福祉の勉強をする前まではまったく気づかなかった。悔しい夏だった>

 鷹巣の多くの人々は越石君同様、この町以外の現実を知らず、鷹巣のような福祉を当たりまえと思っているのでした。日本人の多くが「水道の栓をひねれば水がでてくる」のを当たり前と思い「町長が変わったら水汲みで苦労するかもしれない」などとは夢にも思わないように。

 8月の末、ボランティアグループの招きで鷹巣を訪ねた長野県の田中康夫知事は、1000人を超える町民を前に「特例債はハコモノにしか使えません。合併をすすめることで借金を子孫に残すことになりかねません」と語り、こう結びました。
 「鷹巣町は私にとって、まぶしい場所、見習いたい場所でした。この町が数年後、こうなってはいけないという遺跡になってしまうか、一時期は揺れ動いたけれど再び注目される町になるか、皆さん一人一人に問われています」

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